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■部訓について
部訓は、第2代部長の故筒井徹先生が当時の先輩方に直筆で残されたものです。この「公正、明朗、努力、礼儀」の4文字は部訓として道場の壁面上に掲げられ、創部の精神として今も将来も伝えられていきます。
筒井先生はその実直な人柄で知られており、学内外を問わず、多くの関係者から敬愛されていました。残念ながら先生は帰らぬ人となってしまいましたが、我が部を思うその精神は、直筆の部訓と共に後生に語り伝えられております。
■シンボルマークについて
シンボルマークは、1997年に実施された、創部50周年記念事業に関連して、OB会から体育会レスリング部へ寄贈されたマットキャンバスに記されたものです。
デザインには、「東北学院」の校章をモチーフに、半世紀という永い歴史に秘められた諸先生、先輩個々の熱い想いを情熱の赤で具現化し、生涯、現役と共に労苦を分かち合いたいという熱い願いが込められています。
マット中央部の直径1mのサークルに記されています。
創部50周年記念誌
■ 創部当初の昭和23年から平成9年頃までの部史。
●昭和23年
現在を遡ること50年、終戦から3年経過したものの未だ貧困の時代であったこの年、好奇心の旺盛な一人の学生が西洋から伝来した格闘技に興味を持ち、仲間を集め、稽古場を捜し、部を興した。明治19年に「仙台神学校」として創立され、半世紀以上の歴史を誇る「東北学院」の学生もこの戦後の混迷の時代には無気力な日々を送っていた。英文科2年に在籍する浅見方平はこの空虚な生活から脱却する機会として、知人の早稲田大学OB・林真氏から紹介された西洋の未知の格闘技"レスリング"に挑戦する。「敵国アメリカのレスリング何するものぞ」との思いで林氏に挑んではみたものの息も絶え絶えの状態で惨敗を喫し、この時から浅見はレスリングの虜となってしまったのである。日本で最初に早稲田大学にレスリング部が創部された時も、当時の学生であった八田一胡氏が渡米した折、西洋の未知の格闘技“レスリング”に挑戦し惨敗したことから端を発しており、負けん気の強い浅見がレスリングの虜となってしまったことは林氏の思惑通りであった。GHQの指導で柔道、剣道が厳しく規制されたこの時代に「レスリングを全国に普及させ、戦争で負けた米英をレスリングでねじ伏せてやる」という八田一郎会長(日本レスリング協会)の方針は血気盛んな若者達に刺激を与え、その刺激を受けた若者の一人が浅見だった訳である。林氏は本学にレスリング部を創部するため奔走、小田学長に直談判し教室一室の提供を受け、自費で畳とシートを用意し、浅見も級友達を誰彼となく集め、若き血潮を踊らせながら稽古に明け暮れた。こうして本学にレスリングの稽古場が出来、レスリング部が誕生することとなったのである。
●昭和24年
浅見がレスリングの魅力に引き込まれて早いもので一年が経過していた。連日の稽古で満身創痍、歩くことさえ儘ならぬ時もあったが、日毎に自分達の技術と体力が向上しておりそれが何よりの楽しみであり薬でもあった。現在普及しているマット・キャンバスでさえレスラーの肘や膝は擦過傷に悩まされる。まして、この当時使用していたのは荒畳に倉庫用のシートを被せた粗末な物で、全身擦り傷だらけになることは明らかであった。稽古着も下着のバンツ一丁、もちろんシューズなどは無く裸足である。全てにおいて恵まれている現代と違い、戦後のこの時代は大学に通えることすら最高の贅沢なのである。設備や用具が整わない事は仕方が無い。大学の数少ない教室を借りて行う毎日の稽古で最も辛いのが稽古後の片づけであった。いつの日か自分達専用の道場を持てることを夢見、傷つき疲れはてた体で畳を倉庫へと運び、教室の藁と埃を掃除する。毎日午後三時になると林氏が稽古に訪れ、タックル等の基本的な技術から実戦的な技術まで文字通り“手取り足取り”指導を行う。林氏の熱意と学生達の闘争心、向上心が部を支えていた。正式な部活動として認められる為には、もう一つ課題が残っていた。顧問の教員が必要だったのである。島本先生が初代部長としてレスリング部の面倒を見てくれることとなり、こうして翌初代主将・浅見万平の下「東北学院大学レスリング部」(当時、専門学校であった本学は教育基本法・学校教育法に基づき、この年に大学へと昇格した)が誕生した。
●昭和25年
連日の猛稽古で部員達もすっかり逞しい体になり「これまで実際にレスリングの試合を見る機会が無かった部員達に高いレベルの試合を見せてあげたい」と考えた林氏は、この年の夏に仙台で「日米対抗試合」を行う事を企画する。全日本学生選手権王者の石井庄八選手(中央大学)をはじめとして日本を代表する選手達が自分達の目の前で試合を行う事に、部員達は興奮し胸を踊らせた。待望の夏休み、常盤木学園の体育館で「日米対抗試合」は開催された。日本レスリング協会からは八田一郎会長が、また地元からは宮城県保健体育課の方々や大石栄一氏をはじめ多数の協力者が台風の最中にも関わらず会場に駆けつけた。日本代表チームと米国最強のオクラホマチームとの世界でもトップレベルの選手達の試合を目の当りにし、試合後は選手達の胸を借りて稽古を行い、部員達には最高の経験が出来た夏であった。又、林氏はこの仙台での「日米対抗試合」を契機として宮城県内に於けるレスリングの普及・底辺拡大を考え、県の協会設立を懸案、大石栄一氏が初代会長に就任し宮城県レスリング協会が発足したのである。浅見は母校の恩師・横山先生を訪ね、東北学院高校にレスリング部の創設を懇願、仙台高校でも高橋仁先生の尽力で創部されることとなり、地道に底辺拡大の活動を行う。秋も深まる頃、名古屋での国体に林氏ととむに出場することとなった3名(浅見、平塚民雄、平塚和昭)は連日連夜、裸電球を灯しながらも稽古に励み、遂に林氏も音を上げる程のレベルに達したのである。
●昭和26年
「レスリング部」が正式に部として認められて一年以上が経過、仙台にも桜の便りも聞こえる頃、浅見も卒業の春を迎えた。卒業式ではボクシング部、空手部と共に部創設の表彰を受け、レスリング一筋であった浅見の学生生活に終止符が打たれた。浅見の後を高橋弘が二代目の主将として引き継ぎ、中平恒男、守春美夫、平塚和昭、平塚民雄をはじめ逞しさを増した部員達を牽引する。部長を勤めていただいた島本先生が他の大学に移られる事となり、新たに筒井徹先生に部長として就任していただいた。稽古場も礼拝堂の地下を使って行われる様になり、又、明治大学OBで学生レスリング界ではフライ・バンタム両級で全国のトップレベルで活躍した鎌田磐氏が稽古に訪れ、技術面では勿論、精神面でも指導を受ける。
折しも、来年には宮城・山形・福島の三県合同で国体が開催される。選手として出場する自分達の強化は勿論のこと、ある時は学院高で、またある時は仙台高で稽古を行ない、底辺である高校生の強化にも力を入れ、日毎の稽古に熱を入れた。国体の会場となる育英学園高校にもレスリング部が創部され、宮城県でのレスリング熱は徐々に高まりつつある。卒業した浅見と同様に部員全員がレスリング一色の学生生活を送っていた。
●昭和27年
本県での国体開催は宮城野原を中心とした交通網の整備をはじめ各種競技施設の新設・増設といった事業が行われ、全国から集結する各種目の選手・役員達を迎える準備も整った。戦争で焼け野原と化し、荒れ果てた仙台の復興事業も、この国民的イベントの開催で一気に加速し、市民・県民に大いなる希望を抱かせた。育英高校の体育館を会場に開催されたレスリングは本学から出場した平塚民雄が活躍、この大会を契機に「レスリング」というスポーツの名が広く響きわたり、そして「体重別だから体が小さくても活躍するチャンスがある」という魅力も多くの観衆達に伝わり、高校生の競技人口が飛躍的に増加した。折しもこの年にはヘルシンキ五輪に出場した石井庄八選手が金メダルを獲得、レスリングの知名度を高め普及を加速させた最も大きな要因であったと言える。第二次世界大戦のため2度にわたって中断されたオリンピックが戦後初めて行なわれたのは4年前のロンドン大会である。しかし日本は招待されておらず、日本が戦後初のオリンピック参加を果たせたこのヘルシンキ大会で、日本選手団は陸上、水泳、体操、レスリング等12競技に出場。その中で唯一の金メダルがレスリングの石井選手であった。2年前、仙台で自分達の稽古に胸を貸してくれた石井選手が名実共に世界の頂点に立ったことは本学の部員達にも大きな感動を与えた。さて、本学の活動であるが東日本学生王座決定戦への挑戦が決定し、平塚和旧主将の指揮の下、連日の稽古にも一層の熱が入っていた。部員達にとって初めて経験する公式試合、列車にゆられて戦に赴く緊張感。試合内容は決して満足できるものではなかったが、東京の大学のレベルの高さを目の当りにできたこと、肌で感じることができたこと等、大変収穫のあった遠征を経験した。
●昭和28年
本学レスリング部の黎明期を支えた守喜美夫が卒業の春を迎え、共に汗を流し励ましあった仲間との別れに部員達の頬にも思わず涙がつたう。そして昨年の主将を務めた平塚和昭も留学の夢が叶い渡米(仙台に駐留していた米軍兵が度々平塚にレスリングと英会話を指導していた縁による)。別れがあれば新たな出会いもあるのが人生である。昨年のヘルシンキ五輪の金メダル効果か宮城国体成功の効果か、いずれにしろレスリング熱が高まったことは喜ばしいことである。続々と新しい仲間が加わり、部の活動も活気を帯びてきた。平塚民雄が主将に就任、秋田大学との交流を進め定期戦を結ぶことに決定。日頃鍛えた成果をいかんなく発揮すべしと平塚主将、佐々布一彦、村山誉夫を筆頭に部員達に心気合いが入る。緊迫した内容の試合が続き、応援している者達の声も枯れる。僅差で本学が勝利、心地良い疲労感に勝利の美酒がまた美味い。競いあえる内容の試合を経験することは漠然とした練習を繰り返すより何倍も選手本人のレベルを高める。東日本学生王座決定戦での成績は、歴戦を重ねた東京の大学の連中に本学のレベルがまだ追いつかないためあまり思わしくなかったが、いつの日か追いつき追い越す時が来るよう、希望を持って稽古に励む。明治大学OBの鎌田氏の尽力で若柳小学校にて合宿。鎌田氏の適切な指導で部員達の技術は見違えるほど向上した。
●昭和29年
街頭テレビの前には力道山の空手チョップを一目見んと黒山の人たかりができ、「ゴジラ」の上映されている映画館には連日超満員の客が押し寄せ、終戦から9年経ち急速に復興を遂げた民衆には圧倒的な力強さを求める風潮があった。我が部の部員達もまた、その圧倒的な力を養成すべく遠藤一郎主将以下、深川潔、原衛達を中心に稽古に励む。創部以来、教室を間借りして、また礼拝堂の地下にシートを敷いて日々の練習を行なって来たが、筒井部長の尽力によりようやく専用の稽古場を手にすることができた。研究棟脇の柔道場だった棟が「レスリング道場」となり、早速一昨年の宮城国体で使用されたマット・キャンバスを譲り受けて敷き詰める。壁の隙間や閉まりきらない窓からは風が吹き込んでくるが、そんなことはどうでも良かった。とにかく待望の自分達の道場が出来たことが部員達には最高のプレゼントであり、嬉しかったのである。昨年から定期戦を結んだ秋田大学を仙台に招き、東北大学の体育館を会場として第二回定期戦を行なう。新道場での練習の成果は早くも圧倒的勝利という形で現れ、東北地区大学レスリング競技大会においても秋田短大、秋田大、日大工学部を次々と撃破し初優勝を飾った。「もはや東北では敵無し」の状態にまで成長したが、新たな目標として全国のレベルに追いつくことが掲げられた。大学レスリング界の王者・中央大学を仙台に招き合同合宿を行なう。笹原正三選手をはじめ文字通り日本のトップレベルの選手達とのスパーリングでは、鎌田義郎、木村滋、太田三千:男、佐々木信雄たちの本学の猛者達も全く歯が立たなかった。
●昭和30年
「神武景気」と呼ばれた空前の好景気。その波は我が部にも押し寄せ、空前の大所帯となった。主将の鎌田義郎以下、木村滋、太田三千男、佐々木信雄、本郷晴夫、木村重雄、丹野茂、矢沢昭、菅井良一、伊藤一郎、進藤博、伊藤憲二、阿部弘、上野晃夫、赤間寛二、星勤の面々(この他にも青木、若松、増田といった部員も所属していた)。昨年の中央大学との合宿以来、皆が自信に満ち溢れた顔つきをしている。既に東北では群を抜く実力を有し、秋田大学との定期戦は今年も圧勝。こと東北地区では他の追随を許さぬ域に達していた。道場のマット表面に染み付いた血と汗の結晶が部員たちの精進ぶりを無言で物語っている。
東日本王座決定戦での成績は振るわなかったが、太田三千男と伊藤一郎が国体の代表に選抜され、平塚OBと共に国体に出場。他の部員達も「来年は俺も国体に出場するぞ!」とばかりに気合いのこもった練習の日々を過ごしている。
●昭和31年
「もはや戦後ではない」と経済白書でも詠われ、我が国の経済成長は薯しい伸びをみせている。そして我がレスリング部の部員達も日毎の猛練習で著しく成長を遂げていた。本郷晴夫主将以下、木村重雄、丹野氏、矢沢昭、菅井良一、進藤博、伊藤憲二の4年生を中心にチーム編成、本学の主催により秋田短大、日大工学部との三大学対抗戦を開催した。結果は本学勢の圧倒的な連戦連勝で見事団体優勝を手にする。東北地区の大学では群を抜く強さを身に付けている本学ではあるが、歴戦の猛者達がそろう東京での試合(学生王座決定戦)では全く歯がゆい思いをさせられる。「これほどまでにレベルが違うのか」川村正憲、岡田有、大友勘吉、大友十三男、姉歯貢の新人たちは地団太を踏みながらも明大、中大、日大のトップレベルの選手たちの試合振りを観戦していた。「この大会に出場している何人かの選手はメルボルン五輪に出場する。世界の槍舞台で活躍せんとする選手の技術を少しなりとも吸収したい。」そんな思いを胸に秘めながら観戦していたのである。
スポーツの祭典・メルボルンオリンピックではレスリング日本選手団が活躍、笹原選手と池田選手が金メダルを獲得。二年前に仙台での合宿で自分達に稽古を付けて戴いた選手達の活躍は本学の部員達にとっても誇りである。上級生は「俺が笹原さんとスパーリングした時はな・・・」などと誇らしげに下級生に話を聞かせた。
●昭和32年
学生スポーツ界の花形と呼べる選手は他の種目(東京六大学野球で活躍する立教大学の長嶋選手や杉浦選手等)でも首都・東京に集中。レスリングも御多分にもれずその傾向は顕著であり、中央大学、明治大学、日本大学、慶応大学、立教大学、専修大学、拓殖大学、そしてレスリング界の祖・早稲田大学等に全国から優秀な選手が集まり、互いに切磋琢磨している。全日本学生選手権でも上記の大学からは優勝者が輩出されている。地方大学である我が東北学院大学との格差は否めない。東北地区大学総合体育大会や東北地区学生レスリング選手権大会では圧倒的な強さを誇る本学も東京での試合は「借りてきた猫」のようにおとなしくなってしまう。長時間列車に揺られる長旅のせいで負けている訳ではない。秋田に遠征する時も東京に行く時と同じ位の時間を要するのだ。「今年こそ東京の大学の連中に一泡吹かせてやれ!」阿部弘主将以下、赤間寛二、上野晃夫たち4年生が後輩たちを叱宅激励しながら猛練習に励む。東北地区大学総合体育大会、東北地区学生レスリング選手権大会、秋田大学との定期戦での圧倒的な勝利で優勝を飾る。いよいよ東日本学生王座決定戦を迎えた。青山レスリング会館へ向かう選手達の表情は凛々しい。組み合わせは緒戦が慶応大学、勝てば二回戦で日本大学、いずれも強豪である。「相手にとって不足なし!」慶応大学との試合が始まった。フライ級の佐々木がまず勝どきをあげた。一気呵成に攻めこまんと大友勘吉がマットに上がる。声も枯れんばかりの応援が続く中、健闘空しくフォール負けを喫する。以下、川村、星、上野、姉歯が次々と敗れ、団体での負けが決した高橋以降の選手は試合開始後間も無くのフォール負けを喫し、結果的には1-9の大敗であった。負けはしたが選手達はこれまで一生懸命に稽古を重ねて来た。帰仙後も「雪辱を果たす目標ができた」と向上心も旺盛に、よりいっそうの飽くなき挑戦を続ける。
●昭和33年
プロ野球界では読売ジャイアンツに入団した長嶋茂雄選手が期待通りの大活躍をし最優秀新人賞を獲得したこの年、我が東北学院大学体育会レスリング部にも次代を担う大物新人・育英高出身の大波美智雄が入部した。星主将は大波が全日本のトップクラスまで育つことを期待し、全国でも最も練習の厳しいと云われている明治大学の合宿へ武者修業することを勧めた。大波はこれを受けて単身、明治大の合宿へ参加した。想像以上にハードな練習が連日連夜続き、脱落者も日毎に出ている。22名で参加していた某大学の選手達は合宿3日目にして全員が脱走したほどである。高校時代から根性の塊であった大波はこの厳しい合宿で一カ月を過ごし、一段と逞しくなって帰仙、星主将や同じ新入生の高橋勝海、田中勝吉たちに出迎えられる。
例年行なわれてきた秋田大学との定期戦。大変残念なことに部員不足の難に陥った秋田大学レスリング部は崩壊してしまい、定期戦は消滅という形となったが、取って変わって秋田の実業団チームと交流試合を行なうことが決定。社会人レスリングの雄・小玉醸造と秋田帝国石油の2チームと試合をするため秋田へ遠征。両試合とも大接戦の末に本学が勝利し、来年以降も定期戦という形で試合を行ない交流を深めようということになった。
●昭和34年
2年生となった大波美智雄が今春もまた明治大学の合宿へ参加。今回は同級生の高橋勝海と育英高校時代からの後輩でもある新人の菅野紀夫を引き連れて3名での武者修業である。新人の菅野にとっては勿論、高橋にとっても初めての参加となる明治の合宿、噂通りの地獄の猛練習の連続に息も絶え絶え。筋力トレーニングの量は半端な数ではない。文字通り桁が違う。お互いを励ましあいながら練習についていくのが精一杯といった感じだったが、スパーリングでは明治の強豪相手に全く遜色のない戦い振りで存在感を示す。大波と菅野はレスリングに必要なセンス、闘争心、度胸等、全ての要素を満たしており、全国でも充分に上位を狙える力を有していることがこの合宿で自覚できた。日本のトップの座に君臨する明治大学で練習した経験は高橋にとっても大きな自信となった。帰仙した3人は森興伍や遠藤雄一たちの1年生に合宿での土産話を聞かせる。本学の練習が決して楽な訳ではないが、明治での厳しい合宿の話に身震いしながら聞き入る1年生たちは、より厳しい練習を自分たち心積んで全国レベルで通用する選手にならねばと意を決する。こうして下級生たちの士気が高まる中、上級生も岡田主将以下大友勘吉、大友十三男、姉歯貢、川村正憲の4年生を中心に厳しい練習の日々を送り、昨年から開催された秋田の社会人チームとの定期戦を迎えた。本年は地元・仙台で迎え撃つ。昨年の試合振りから接戦が予想されたが、秋田チームは小玉醸造と秋田帝国石油の連合チームを編成してきたため思わぬ苦戦を強いられ、遂には苦杯を喫することとなった。親善ムードの定期戦とはいえ、負けることは悔しいことである。部員たちは高橋達、佐々木晃の3年生を中心に再起をはかるため今まで以上に厳しい練習の日々を送った。
来年行なわれるローマ五輪に出場する仙台高校出身の松原選手が凱旋帰仙、仙台一中の体育館で壮行試合が催された。本学から1年生の菅野がフライ級ということで試合を行ない、五輪代表選手の胸を借りた。菅野にとっては素晴らしい経験となったことであろう。また、この試合を観戦していた多くの観衆にもレスリングというスポーツを認識していただき、影響を受けてレスリングの道を志す少年たちもいたということで、この壮行試合は大成功であったといえる。
皇太子殿下の御成婚で日本中が祝福に沸き、美智子妃殿下の愛称から「ミッチーブーム」が巻き起こった。我が東北学院大学体育会レスリング部の「ミッチー」こと大波美智雄は2年連続で国体の代表として選ばれ、またローマオリンピックの予選にも出場するなど獅子奮迅の活躍。来年の更なる飛躍が楽しみである。
●昭和35年
テレビも徐々にではあるが加速度的に普及しはじめ(当時はまだ白黒)、最も人気の高かった番組は空手チョップで次々と悪役外人レスラーを薙ぎ倒す力道山のプロレス中継であった。プロレスとはとかく混同されがちな我がレスリング競技であったが、己の肉体を鍛えぬき相手と組み合う部分はなんら変わりはない。「血沸き、肉躍る」格闘技レスリング、その魅力に取り付かれた本学のレスリング部員たちは高橋達主将の指揮のもと、血の溜まる耳の痛みをこらえながらも稽古に明け暮れた。しかし年間に行われる試合も東日本王座決定戦と秋田社会人チームとの定期戦の二回だけでは、若き血潮が高ぶる部員たちの腕を試す機会が少なすぎる。「もっともっと試合に出たい!試合での勝つ喜びを味わいたい!」それが部員たち全員の共通の願いであった。特に伝統有る「関東学生リーグ戦」に出場する夢を何とか果たせないものか、我が部の発展に大きく関わる課題である。今、自分たちがまず行わなければならないことは、いざ夢が実現した時にけっして恥ずかしい試合をせぬように日頃の鍛練を欠かさないことである。寺崎、加藤、村田、馬場たち1年生も先輩たちに遅れを取らぬよう必死に練習についてくる。もちろん4年生となった高橋達、高橋征義、佐々木晃も後輩達の指導をしながら自らの鍛練を怠らない。チーム一九となって秋田実業団との定期戦に臨み、昨年の雪辱を晴らした。試合後は勝利の美酒(銘柄はもちろん太平山)を楽しみながら秋田での一時を過ごす。
ローマ五輪では活躍が期待されたレスリング選手団が不振に終わり、唯一仙台高校出身の松原選手が銀メダルを獲得した。八田会長以下選手団が帰国した際の容姿は全員が剃りあげた坊主頭で、この時以来、ことあるごとに「剃るぞ!」がレスリング界の懲罰の風習となった。
●昭和36年
「関東リーグ戦出場」という大いなる目標のもとに大波主将率いる部員たちは気合い充分の稽古を重ね、自衛隊若竹駐屯地に於て強化合宿を行なった。この合宿に日本体育大学を招き花原選手をはじめ全日本トップレベルで活躍する選手たちも多数参加。自分たちのレベルが東京の大学の選手たちとも互角にわたりあえるほど、実力が向上したことを実感する。メルボルン五輪の金メダリスト笹原選手の母校である山形商業から期待の新人・一条正彦が入学。木村秀起、吉田日出夫、伊藤孝哉、村井宏たちと共に将来の本学レスリング部を背負う逸材として大切に厳しく育成したい。
浅見OB、平塚OBたちが礎となってレスリング部を創部して早いもので10年以上が経過した。遅ればせながら「東北学院大学レスリング部創部10周年記念事業」として東北各地から高校生の代表選手を集め、「東北地区高校レスリング競技大会」を本学が主催して開催。本学レスリング部の存在を東北各地区に広く知っていただく事業として、大変有意義であったと言える。
大波の後を受けて菅野が主将に就任、菅野の補佐役として知将・森が主務に就任する。「関東リーグ戦出場」の夢を実現するために菅野と森は奔走していた。菅野の人脈で明治大、中央大、日本人、立教大等に在籍していた大勢の理解者の口添えも有り、東日本王座決定戦の結果次第で実現可能の線まで漕ぎ着けた。部の将来を左右する王座決定戦に向けて体力強化の目的で強化合宿を七ヶ浜(菖蒲田浜)にて行なった。この合宿ではテントを持参し野営、厳しい環境で精神力も鍛えようという試みである。吉田の豪傑ぶりが早くむ発揮され、近隣の民家より食事や風呂の面で絶大な協力を施される。いよいよ「関東リーグ戦出場」の命運を賭けて東日本王座決定戦に臨む。4年生の大波も出場し準々決勝まで勝ち進む。迎えた対立教大戦も大波、菅野の活躍そして新たな豪傑・吉田も勝ち、試合は5対5の緊迫した展開で重量級の木村が勝負の行方を決める。木村は1年生ながら積極的に攻めまくり、勝利を手にしたも同然かと思われたが一瞬の隙を突かれ逆転フォール負け。やはり「一日の長」とでもいうべきか立教大の意地の前に惜敗したが、関東リーグ上位校の立教大相手に善戦したことは、本学の部員たちには大きな自信につながったといえる。
目標に向け着実にステップアップする部員たちの耳に体育会本部へ出向していた馬場の訃報が届く。列車からの転落事故により仲間を失った悲しみ、生命のはかなさを感じ葬儀に参列した部員達は涙が止まらなかった。
●昭和37年
昨年の王座決定戦での好成績が評価され、いよいよ念願の「関東リーグ戦出場」がこの春に実現することとなった。喜びに沸く部員たち、自分たちの実力を思う存分出しきり「東北学院大学ここにあり」と天下に示すべく練習にも今まで以上に熱が入る。新人の加入は小野寺清1名のみであるが、寺崎、加藤、村田、高橋、久保の3年生を中心にチームはよくまとまっている。立教大戦では惜敗した木村も順調に成長、重量級の要として風格も出てきた。しかし、大会を目前に控えた我々に予期せぬ残念な報が届いた。「本年からの大会出場を見送り、一年据え置き翌年からの出場を認める」との報に主将の菅野は勿論、部員全員が愕然としたことは言うまでもない。先輩たちが毎年行って来た秋田社会人チームとの定期戦も今年は中止し、リーグ戦に照準を絞って練習の日々を送ってきた我々には大変酷な出来事である。前向きに解釈すれば、もう一年力を蓄え来年爆発させればとの考えも持てるが、菅野、森、遠藤の4年生にとっては来年は無いのである。なんとか気をとりなおして練習に明け暮れる日々を送るが、眼前の目標無き練習は精神的にも辛いものであった。一人、また一人と練習を休む部員も出始め、部全体のまとまりも欠け始めたある日、菅野は部員たち全員を道場に呼び正座をさせ説教、数名の部員を幾度となく殴りつけた。殴られた部員たちは泣きながら反省したが、殴った菅野もまた涙が止まらず、他の部員たちも涙し、団結を誓いあう。こうして「雨降って地固まる」のたとえ通り、来年のリーグ戦初出場に向けての練習が再開された。寺崎が主将に就任し、本学道場にて立教大との合同合宿も行った。この合宿には菅野も参加し後輩たちに激を飛ばしながら自分たちの学年で実現しなかった夢を後輩たちに託す。
以下はこの年、春の ベストメンバーである。
主将 菅野紀夫 主務 森 興伍
フライ級 菅野 村井
バンタム級 村田 伊藤 高橋
フェザー級 寺崎 小野寺
ライト級 森 一条
ウェルター級 吉田
ミドル級 久保
ヘビー級 加藤 木村
●昭和38年
この春に卒業した菅野、森たちの悲願であった関東リーグ戦への出場の夢は寺崎主将が引き継いで実現へと邁進する。大会に出場するためには監督の連盟登録が必要ということで大波OBが昨年から監督として就任、後輩たちの指導にあたり「勝負事は参加する事に意義があるわけではなく、勝利する事に意義がある」という「八田イズム」の精神を本学の部員たちに充分浸透させていた。そして新入生も加藤一之、佐々木幸蔵、佐藤薫、蒔苗利春の4人が入部し、寺崎主将以下、加藤善昭、村田紘、久保正之、高橋晋たち4年生は槍舞台での勝利を目指して後輩たちを叱咤激励しながら稽古に明け暮れた。いざ関東リーグ戦に出陣。上野まで列車に揺られる時間もこれまで歩んで来た険しいリーグ戦への長い道のりに比べれば僅かなものである。東京農大、神奈川大、学習院大との対戦では厳しい練習の成果を発揮し見事に勝利を収めたものの、防衛大、東洋人との対戦で惜敗したため本学の関東リーグ戦デビューは三部リーグ3位という結果てあった。
創部当時から我が部が地道に行なってきた活動である「底辺への競技普及・拡大」は、卒業したOBもその精神を忘れることなく実践していた。高校時代は野球で名を馳せた大友十三男OBが赴任先の古川商業にレスリング部を創部。寺崎、加藤、村田たち4年生も古商の合宿へ訪門、大崎地区から未来の王者を育てるべく熱心に指導を行なう。
OBと4年生が高校生の指導に精を出す一方で、汗臭い本学の道場では新主将となった一条を中心に来年のリーグ戦三部優勝を目指して特訓(この特訓という言葉は翌年に控えた東京五輪に出場する女子バレーボールの大松監督が考え出した言葉である)が行なわれていた。加藤一之、佐々木幸蔵、佐藤薫、蒔苗利春の1年生にとってはまさに「地獄の特訓」であった。プラス思考の加藤と佐々木は「東京の強い大学の連中に比べればウチはまだ天国」とお互いを励ましあって頑張っていた。
●昭和39年
東京オリンピックの開催されたこの年は、戦後の混迷を乗り越え著しい経済成長を遂げている日本の最大の転換期であった年といっても過言ではない。東海道新幹線の開業、高速道路網や鉄道・地下鉄網の整備が盛んに行なわれ、そしてカラーテレビの普及等数えればキリが無い程、開催地の東京のみならず全国的に経済効果をもたらした。男子体操・女子バレーボールの日本選手の活躍に国中がテレビに釘付けされ、宮城県出身の選手では重量挙げの三宅選手が期待通り金メダルを獲得、柔道の神永選手は銀メダルを獲得した。そして八田会長率いるレスリング選手団もフリーで吉田選手、小幡選手、渡辺選手、グレコで花原選手、市口選手の合計5人が金メダルを獲得。ライオンとにらめっこ、夜中に急に起床、電灯を点けっぱなしで寝る、箸は左手で・・・等数多くの逸話を生んだ「八田イズム」の大勝利であった。
合理的根性論「八田イズム」が成果を収めた東京オリンピックを遡ること約半年、本学でも血と汗の道場でひたすらに「根性」のスパーリングが繰り返されていた。主将の一条をはじめ木村、吉田、伊藤、村井たち4年生は自分たちにとって最後の年に何としても「関東リーグ戦三部優勝を果たす!」という目標を掲げて練習に臨んでいた。須藤正俊、村田武徳、加藤征三郎、佐藤勝朗の4名の新人たちも歯をくいしばりながら、必死に先輩たちに挑む。村田武徳と加藤征三郎はいずれも兄の影響でレスリングを始めた「兄弟レスラー」で、上級生に気後れせずに向かって行くが所詮は1年生、足下にも及ばない。こうして目標を明確にして臨んだ関東リーグ戦、三部リーグで圧倒的な強さで神奈川大、防衛大、学習院大を下し、昨年苦杯を喫した東京農大をも破って見事優勝を手にした。勢いに乗って臨んだ入替戦も工学院大を大差で下し2部昇格を決め、2年掛かりの目標を果たした。まさに全員でつかみとった栄誉である。
リーグ戦後、4年生の抜けた後を受けて小野寺が新主将に就任し夏には女川での強化合宿を行なった。しかし合宿後はリーグ戦での目標達成の満足感や部員数の減少により練習に以前ほど実が入らない日が続く。そんな折、佐々木幸蔵、佐藤薫の高校時代の先輩である中央大学の佐藤博俊選手が全日本学生選手権ライト級で優勝した。母校の先輩の優勝に感動し、「幸蔵、薫、おまえたちもしっかり頑張ってもっともっと強くなれ」という激励まで佐藤先輩に頂戴した佐々木と佐藤は自分たちの飛躍のためにより一層の精進を重ねることを同級生の加藤一之たちと共に戦う。
●昭和40年
年も明け昭和も40年代に突入し、昨年の東京オリンピックの大成功で日本の景気も急上昇中である。レスリング界も5個の金メダル獲得で意気揚々、そして本学にも期待の新人たちが続々と入部する。中学時代からレスリングの魅力に取り付かれた石田博基、高校3年からレスリングを始めた石崎孝二、共に昨年のインターハイ、国体で活躍し(特に石崎はインターハイ3位、国体2位、そしてアメリカ遠征でも活躍)将来が嘱望される。そして鈴木敏明、熊沢保雄、小埜寺敏文、小菅正幸、三浦方達、村上功、鈴木文吉、三浦朔朗、総勢10名の金の卵たちを仲間に加えた。これだけ優秀な新人が揃いむ揃って10名も入部することは後にも先にもむはや無いことであろう。彼らは間違いなく我が部の黄金時代を築く中心となることを予感させる。しかし過保護に育ててはせっかくの逸材たちが無駄になってしまう。道場で合宿し、大学での厳しさを教えるべく練習に励んだ。1年生にとっては練習もきついがそれ以上にきついことがある。運動部特有の上下関係や雑用等で合宿中は一時も気持ちの休まる時間などいつの時代も1年生には無いのである。特に3年生には“宴会部長”佐々木幸蔵が、2年生には“男”村田武徳がいるのである。本来、学内での飲酒は道場といえど御法度である。しかしさすが我がレスリング部は豪傑の猛者揃いである。合宿の打ち上げにと道場内での大酒盛りが盛大に行なわれた。酔って乱れた輩にはお互いの履いているパンツを破りだす者があらわれ、遂には全員がノーパンとなり、他の合宿所に暴れ込む輩までいた。これが世に云う「パンツ事件」である。黄金時代到来の予感も「パンツ事件」のおかげであわや廃部寸前に追い込まれ、筒井部長の取り成しで何とか廃部の難を逃れた。
今年から二部リーグに昇格した関東リーグ戦では本学の猛者たちがマット狭しと大奮闘。東日本学生王座決定戦は本年から名称を全日本学生王座決定戦へと改称。本学は日頃の練習の成果を発揮して勝ち進み、関西の雄・同志壮大学と対戦。白熱した試合展開も重量級の層の薄さという弱点が露呈し、5対6のスコアで惜敗。新主将となった加藤一之は来年の課題として重量級の補強・強化策を唱える。
●昭和41年
学生運動の波は仙台にも訪れ、いわゆる全学連・社青同・カクマル・ロックアウト等の見出しが新聞紙上を賑わし、本学に於てもどこからともなくハンドマイクのアジ演説が教室に聞こえて来るほど盛んに行われていた。そんな時代の折、我がレスリング部は加藤主将の指揮のもと連日の猛稽古に明け暮れ、高校時代にインターハイ3位の実績を持つ相原をはじめとして、富士、田村、佐藤たち11名の新人を加え、若さと情熱を直向きにレスリングの道へと燃やしていた。部員たちの何よりの励みとなったのはこの春、アメリカ遠征をしてきた加藤主将の活躍である(ネブラスカ州リンカーン市で行なわれた全米学生選手権大会に出場した加藤はその後全米各地を転戦し8勝をあげ表彰された)。部員たちは「自分にも海外遠征のチャンスが訪れた時にはもっと目立つ成績を取ってやる!」という意気込みで練習に臨み、道場の中はピリピリとした緊張感と汗臭さで充満していた。そんな汗臭い道場にも可憐な花が一輪咲くこともある。淀谷英子が我がレスリング部史上初めての女子マネージャーとして入部したのである。
すっかりボロボロになった道場のマットをなんとかしないと選手たちの膝が壊れてしまう。筒井部長が大学に折衝して購入してもらうことが決定し、道場も移転することになった。早速新道場(といっても建物は古く、隙間風が吹き込む造りである)に新しいマットが敷かれることになったが、連日の猛練習でこの新しいマットがまたボロボロになる日はそう遠くはないだろう。
さて、加藤一之、佐々木幸蔵、佐藤薫、蒔苗利春たち4年生が抜け、新主将を誰に任命するかが加藤たちの最後の大仕事である。検討に検討を重ねた結果、「眠れる獅子」村田武徳が主将となり部員たちの新しい牽引役となった。村田が如何にリーダーシップを発揮するかが大きな賭けてあったが、3年生の練習に取り組む態度の豹変はまさに大成功と言え、本学レスリング部史上最も名高い主将誕生の逸話は後世に語り継がれることとなる。
●昭和42年
本学体育会には「体育会の目的」という条文がある。その文中に「体育活動を通じて心身を練磨し、(中略)有能なるリーダーを養成して社会に奉仕する事業を成すことを目的とする」というくだりがあるが、我がレスリング部はまさにそれを実践している。昨年の主将を努めた加藤一之が卒業式で体育会特別表彰(最優秀選手)を受けた。かって浅見OBが表彰を受けて以来の我が部からの栄誉である。そして本年度の主将となって以来文字通り豹変した“男・村田”が有能なるリーダーシップを発揮する。加藤、須藤、佐藤の4年生と村上、小菅、熊沢、三浦、鈴木たち3年生が村田を陰で支えながら後輩たちを励まし、抜群のチームワークで部を運営していた。そして今年もまた、有望な新人たちが多数入学してきた。学院高校からは赤間勝、鈴木達郎、古川商業からは大沼哲、大崎主税、古川高校から佐々木正、仙台高校から坂井道郎、育英高校から大崎三夫等総勢10名の未完の大器たちを加え、我がレスリング部史上最も隆盛を誇る時代へと突入したのである。中央大学時代はその名を全国で轟かした相沢秀平氏と佐藤博俊氏の両名が道場に頻繁に訪れ稽古をつけていただき「今の3倍は練習しなければ東京の大学に勝てない」という厳しい意見も頂戴した。全国でも上位入賞を狙える3年生の小埜寺、石崎、石田たちが率先して稽古に取り組む。松島での強化合宿をはじめ道場での連日の猛特訓、課せられたその過酷な練習メニューをこなすことは入部したばかりの新人たちには勿論、地獄の日々である。故障のため止むなく離脱する者も数名発生した。
さて、来年のメキシコ五輪の選考試合に本学勢も出場した。第二次予選会ではフライ級(フリー)で小埜寺が見事1位で通過、バンタム級(フリー)で石崎が3位に入賞しオリンピック出場の夢に望みをつなげる。本学レスリング部が創部されて早いむので20年の歳月が経過、幾多の先輩諸氏が流した血と汗と涙で築いた伝統を背負い、道場ではオリンピック代表の座を賭けて戦う小埜寺と石崎の最終選考会に向けての練習が行なわれていた。周囲の期待を一身に受けて、いざ出陣である。20年間の歴史を築いた先輩たち、最後の調整まで付き合ってくれた同級生たち、仙台駅で見送る後輩たちの顔を想い浮かべながら列車に揺られ、試合会場へと足を運ぶ。流石に最終選考会まで勝ち残ってきた猛者たちとの試合は一筋縄には行かない。緊張した空気が会場内を覆う。代表となるための条件は選手としての素質と努力、そして運にも恵まれることである。小埜寺、石崎の両名の頭上で勝利の女神は微笑まなかった。本学初のオリンピック代表選手の誕生は残念ながら見送られた結果だったが、二人の与えてくれた感動は部員たちの何よりの励みとなる。
●昭和43年
メキシコオリンピックでは前回(東京)に引き続き日本レスリング勢の活躍が目覚ましく、中田選手(フライ級)、小幡選手(バンタム級)、金子選手(フェザー級)のフリー3階級とグレコの寒村選手(ライト級)とで合計4個の金メダルを獲得。レスリング勢のゴールドラッシュに「日本のお家芸」と言わしめる競技としてその地位を確立、「金メダル獲得こそが普及への最も近道である」と謳う「勝利至上主義・八田イズム」の全盛時代であった。
「次代を担う金の卵たち」として期待され入部した石崎、石田たちも早いもので4年生となり、まさに「光陰矢の如し」である。波乱万丈の4年間には幾多の苦労話や笑い話があったことであろう。後輩たちに語り継がれる逸話の数多くはこの学年が少なからず関与している。練習の厳しさも本学レスリング部の史上最もハードなメニューをこなしていた。その一つが、酒田での合宿である。合宿中の連日の練習も勿論厳しいものであったが、その最たる厳しさは最終日の早朝ロードワークであった。残雪の中、日も未だ昇らぬ朝4時に出発、一路鶴岡へと向かう。距離にして約50キロの往復路、フルマラソンより長い距離を朝の起きかけに走ることは、重量級をはじめ走るのが苦手な選手には地獄の苦しみであった(走るのが好きな選手、得意な選手にとっても勿論きついのは言うまでもない)。その厳しい練習を乗り越え、下級生たちも着々と地力を付けてきた。新入部員も八木範三、栗山宣三、大久保仁志、難波誠、真船和海を加え関東リーグ戦に臨む。「練習での強さが試合になると全く出せない鈴木敏昭を何とかして勝たせたい」これは4年生全員の願いであった。慶応大戦を前にして、石崎主将はその願いを成就するための策と称して鈴木にウイスキーをポケット瓶1本飲ませ、臭い消しとしてニンニクを生でかじらせた。思惑通り勢いの付いた鈴木は慶応の選手に圧倒的な勝利を収める。全く逸話の多い学年であった。
リーグ戦後も厳しい練習の日々に明け暮れ、脱落せずに互いを励ましあって頑張ってきた2年生たちの急成長が著しい。特に赤間、佐々木、大沼は部の将来を背負う資質も充分有し、より一層の精進を期待される。そして“魔人ガロン”こと大崎がまさに眠りから覚めたかの突然の開眼は重量級の要として文字通り“大黒柱”の存在となる。また、来年から監督に就任することになった加藤一之OBが後輩の指導に精を出している。
●昭和44年
主将の相原億七、副将の田村知一、主務の富士智、体育合本部出向の佐藤幸男、4人の4年生たちは道場に集い入学当時からの出来事を回顧した。入学時は11名いた同級生も故障等の理由で次々と離脱。志半ばで去っていった仲間たちの顔が思い浮かぶ。厳しい練習に耐え抜き、汗の臭いの染み付いた道場にこうして集っている4人が先輩たちの築いた輝かしいレスリング部の歴史と伝統を継承し、また新たな歴史を築いて行かねばならない。富士の尽力で青山学院大学との定期戦が行なわれ、10勝1敗で初陣を飾った。新たな歴史を刻みながら4年生たちは自分たちの涙と汗と思い出のたっぷり染み込んだ道場で後輩たちを励ましながら残り少ない選手生活を送る。新人の伊東憲、両川廣一、熊谷正義、伊達照雄にもやがてはこの道場の臭さが懐かしく感じる日が訪れるであろう(高校2年生でインターハイ3位の実績を持ち、レスリング界の“怪童”として期待された伊東も大学での練習の厳しさに初日から悲鳴をあげている)。
学生レスリング界の”真夏の祭典”である全日本学生選手権大会では赤間がフリー74KG級で見事3位入賞。高校時代にさして実績の無かった3年生たちにとって厳しい練習に耐え抜いた成果がこうした好成績を生んだことは言うまでもなく、赤間の全国での上位入賞は「次は俺の番」と自分たちが名実共に全国トップレベルに追いついた自信と希望を与えた。更に、新主将となった赤間が部員たちに夢と希望を与える。全米選手権大会の代表に選抜されアメリカ(ネブラスカ州)遠征を果たす。
大学生活は厳しい練習の日々だけではない。時には楽しい余興の一時も必要である(余興の時間は上級生の楽しむ一時。1年生にとってはいつの時代も苦痛の時間である)。大学祭のアトラクションとして行なわれた各運動部対抗の「ボクシング大会」に我が部からは”ファイター”伊東が出場した。伊東は戦前の予想通り全く防御の姿勢は見せず、ただ体力にまかせた戦いぶりで見事優勝!「恐るべしはレスリング部」と学内中にその名が轟き有名になったことはまぎれもない事実であり、我がレスリング部の歴史の1頁として後輩たちに語り継がれることとなった。
●昭和45年
創部史上、最も厳しい練習に揉まれた学年、赤間たちも4年生となった。この学年が4年間で走った距離は延べにすると地球を一周しているのはという程とにかく走りまくった学年である。酒田~鶴岡、仙台~松島、仙台~秋保などいずれの往復コースも半端ではない距離である。この当時は現在のようなショック吸収型のトレーニングシューズが無く、薄いゴム底の安手のズック靴だったため膝や腰にかなりの負担がかかり、部員全員が大なり小なり何らかの故障を抱えていることになる。半ば宗教的な「八田イズム」の御旗の下にただひたすら「根性」を養う練習の毎日をこれまでは過ごしてきた。主将の赤間を中心に4年生は全員で「良き伝統は継承し、悪しき習慣は排除すべし」の方針を決め、練習以外での理不尽なしごきを撤廃することにした。また、本学レスリング部創部以来のテーマである底辺への普及、拡大にも積極的に取り組んだ。昨年来、県内各高校を手分けして指導して廻り、優秀な人材を大学に送っていただけるよう尽力し、その甲斐あってか仙台高校(菅井雄一、庄司信之)、学院高校(鈴木実、小畑義一)、東北高校(三浦正美)から有望な選手が入学。育英高校からは本年は入学者はいなかったものの県内各高校との絆を強く深め、また久方ぶりに山形商業(小川武)からも入学者がでたことは部の将来にとって明るい材料である。
関東リーグ戦一部上位校の練習量に匹敵する量の稽古を積んできた本学は、もはや二部リーグでもトップレベルの存在である。軽量級から重量級まで戦力も充実している。来年のリーグ改編(一部リーグ12チーム、二部リーグ12チーム、それ以下が三部リーグ)に伴い、一部リーグへの昇格も本年のリーグ戦の好戦積で決定した。赤間たち4年生が練習での苦労に苦労を重ねた成果の集大成である。
新人戦では2年生になった伊東が順調に成長した証をみせて活躍、フリー74kg級、グレコ82kg級の両スタイルで3位に入賞。高校時代からプレッシャーをものともしない伊東は本学の中心選手として今後の我が部を背負う存在となりつつある。レスリングの殿堂・駒沢体育館で行われた全日本学生選手権大会ではグレコ57kg級で八木範三が得意の投げ技が冴え渡り快進撃、見事3位入賞を果たした。2,3年生の躍進が目立つ中、4年生も最後の国体で花を咲かす選手もいる。赤間、佐々木、大崎の3名が出場した岩手国体。大崎は並み居る強豪を次々と撃破し決勝戦へと進出、惜しくも日体大の矢田選手に敗れたが堂々の準優勝となった。
●昭和46年
過去数年、春先に関しては部員数も20名以上の大所帯、そして月日の経つ間に淘汰されて何人かが離脱し、また春を迎えるのが恒例のパターンであった。しかし本年は佐々木和良、佐藤克良の2名しか入部者がおらず、かろうじて学院高校出身の斎藤義寛をマネージャーとして入部させた位で新戦力の補強ははっきり言って手薄と言える。しかし現有勢力は史上空前の素晴らしい戦績を収めた。2年生の小幡が本学レスリング部創部史上初めてのタイトルホルダーとなったのである。新人戦グレコ62KG級での優勝、それは地方大学としてのハンディやグレコローマンスタイルという本学では殆ど力を入れていない種目、そして参加人員の最も多い62KG級でというあらゆる困難を克服しての優勝である。東京の大学で練習相手も多くそしてグレコを専門に練習している強豪たちを次々と撃破する小幡の試合振りはそれはもう圧巻であった。高校時代からの後輩である小幡の新人戦優勝に3年生の伊東憲も奮い立たずにはいられない。高校時代、全国にその名を馳せた伊東憲は大学レスリング界でも再びその雄姿を鼓舞すべく全日本学生選手権グレコ74KG級で準決勝進出。国士館大学の伊達治一郎選手に惜しくも敗れたが堂々の3位入賞。一昨年の赤間、昨年の八木に引き続いての快挙である。そして,重量級の雄・鈴木実が国体フリー100KG級で3位入賞。「小幡、伊東、鈴木の活躍、それは本人の努力はもちろんであるが、先輩たちが築いて来た伝統とそして共に汗と涙を流した部員たち全員の誇りとして賞賛すべきことである」筒井部長は活躍した小幡、伊東、鈴木を誉めると同時に、健闘空しく活躍できなかった者、実績が残せなかった者たちをも同時に誉め讃えた。今年活躍できなかった部員たちも「次に表彰台に立つのは俺だ!」と言わんばかりに練習に打ち込む。部員たちの父・筒井部長に温かく激励されながら、更なる飛躍を求めて猛練習の日々を過ごしていた。
●昭和47年
圧倒的なリーダーシップを誇る伊東憲が主将としてチームを指揮する。卒業する八木範三と伊東主将、そして熊谷正義の3名はアメリカ遠征の日本代表チームに選抜され、この春にロサンゼルス、サンフランシスコを中心に全米各地を転戦。加藤一之OBや一昨年の赤間勝OB、この数年来、アメリカ遠征に選抜される選手がこうして続々と本学から選抜されることは、創部以来、我が部の活動に多大なる応援をして下さる小田学長と我が部員たちの父・筒井部長にとっても大変に喜こばしい出来事である。
昨年来、危惧された新人の補強。本年は酒井孝、熊谷正光、佐藤良信、小山正博、大崎純二、柴田理の6名が入部。部員数の確保はとりあえず成功といえる。現有戦力も一段とレベルアップした。昨年の新人戦で優勝した小幡には更なる飛躍が期待され、そして同じ3年生の小川、庄司、鈴木たちにも今年の活躍が期待できる。全国でも上位に入賞できる実力は既に有している筈だ。これまで行なってきた練習の成果をあとは実戦で発揮するだけである。8年前、東京五輪のレスリング競技会場となった駒沢体育館。かつて5本の日の丸が掲揚されたこの駒沢体育館で全日本学生選手権が行なわれる。その表彰台に本学から揚がったのはグレコ74KG級の伊東とフリー52KG級に出場した庄司の2名であった。伊東は準決勝で日体大の二田選手に敗れたものの昨年に引き続き2年連続の3位入賞、庄司も準決勝で惜しくも敗れたが3位に入賞した。本学勢としては過去4年間で4人目(のべで数えると5人目)の入賞者の輩出は大変素晴らしい成績である。小川もフリー62KG級で健闘しベスト8入りを果たした。文字通り全国の槍舞台で活躍する本学の選手たち。その活躍の原動力となっていたのは幾多の先輩たちの血と汗と涙の染み付いたすきま風の入り込む道場での厳しい練習であったことは言うまでもない。
一方、テロによる惨劇を招きもしたミュンヘン五輪ではすっかりお家芸となったレスリングがフリーで2個の金メダルを獲得(加藤選手、柳田選手)。とかくオリンピック開催の年しか世間では話題に上らないが、確実に金メダルを獲得する種目としてレスリングが注目されることは本学の部員たちにとっても誇りである。いつの日か「東北学院大学レスリング部」の選手がオリンピックの槍舞台で活躍し表彰台に立つことを夢見、部員たちは練習に励むのであった。
●昭和48年
小川主将以下、小畑義一、庄司信之、鈴木実、菅井雄一、三浦正美、4年生となった彼らは創部以来、戦績の最も優れた学年といっても過言ではない。そしてチームワークも最高に良くまとまっている。小川主将のリーダーシップも抜群である。まさに体育会系運動部のお手本となるチームである。鎌田裕明、伊山一正、大場昭弘、佐藤敏明、斎藤知宏の新人も加わり、毎日の道場での練習に励む。すっかり古びたこのレスリング道場が、幾多の先輩たちが流してきた汗と涙を吸収し部員たちの姿を見守っている。窓はきしみ(練習中、この窓から外に放り投げられた輩もいた)、壁の隙間からは風が入り込み、真夏は容赦なく日差しが照りつけ蒸し風呂状態、冬はシベリアか北極かという程冷え込む。三日に一度はマットの補修、そんな道場だが、部員たちにとってはなんともいえない愛着を感じる。
関東リーグ戦初出場から丁度十年が経過。東日本学生リーグ戦と呼称も改まり、今年は全国での上位入賞者が揃う4年生と自力がついてきた2,3年生そして有望な1年生と戦力も揃い、練習量も豊富、一部リーグへの復帰も確実なチーム状態である。もはや二部では敵なしというあかりに圧倒的な強さでAブロック決勝戦へとコマを進め、慶応大とのブロック決勝を戦う。庄司、大崎、小畑、小川、佐々木、佐藤と軽量級から中量級で勝負を決め、3つ星を落としているものの余裕を持ってAブロック1位、二部リーグ優勝を決めるBブロック1位の青学大との決勝も勝利して二部リーグ優勝を果たした。一時帰仙し、いよいよ一部復帰をかけての入れ替え戦に臨むことになったが、部員たちにとって残念なことがおきてしまった。入れ替え戦の日程が試験と重なり出場を断念しなければならない。小川主将は断腸の思いで涙をのみ棄権を決意した。一部復帰最大のチャンスはこうした予期せぬ悲運で逃してしまう。悲運は新人戦でも本学に降りかかる。上位入賞を期待された軽量級のホープ大崎が試合中に肘を脱臼のアクシデントに見舞われ、もちろん試合続行は不可能、棄権負けを余儀なくされた。悲運続きの年であったが佐々木が主将を引き継ぎ、心機一転、来年に夢をかけて道場での練習の日々に明け暮れた。新監督となった伊東憲OBも後輩たちに檄を飛ばしながら練習に訪れ、国体でもグレコ82kg級に出場して5位に入賞した。
●昭和49年
主将の佐々木和良、副将の佐藤克良、主務の斎藤義寛の3名の新4年生は千葉県の銚子市にて春の強化合宿を行なうことを計画。昨年のリーグ戦での悲運(入替戦出場辞退)により先輩たちが叶えることの出来なかった一部リーグ復帰を実現するため、環境を変えて心身を鍛えることが目的である。高校時代の故障により大学入学後は裏方に徹していた斎藤が奔走し主務としての本領を発揮、銚子商業高校レスリング部の部長先生から絶大なる御協力を頂戴した。合宿では練習会場として地元小学校の体育館やヤマサ醤油工場の施設をお借りすることが出来、「一部昇格」を合い言葉に部員たちが一丸となって充実した練習をこなした。合宿後も道場で目標達成に向けて、更に熱のこもった練習を行なう。宮城弘二、加藤良一、高橋浩の新人たちは昨年の事情などは全く知らない訳だが、必死に練習に取り組む先輩たちの姿に「自分たちも試合に出る機会があれば必ず勝つ!」とチームの一員であることを自覚。ムードも日毎に高まり、いよいよリーグ戦に臨む。合宿の成果は本番のリーグ戦でも充分に発揮されて勝ち進み、本学とは実力伯仲の東海大戦を迎えた。一進一遇の緊迫した攻防戦が続く。「絶対に勝って入替戦に出るんだ!」という思いが気負いとなり焦りにもつながる。結局は東海大に惜敗、入替戦で勝つという昨年からの目標にも届かず4年生の目には涙が溢れる。
青学との定期戦では順当に勝利をおさめ、部の運営は酒井を新主将として3年生が引き継ぐ。
全日本学生選手権では、昨年負傷した肘も完治した大崎が健闘。
フリー52KG級でベスト8入りし、準々決勝の対戦相手は日体大の高田選手である。高田選手相手に大崎は積極的に攻め先制点を奪取、前半をリードしながらも後半に守りきれず敗戦・準決勝進出は果たせなかったが大崎の活躍に仲間たちも感動させられた。そして小山もまた仲間たちに感動を与えるべく、国体グレコ62KG級で5位入賞を果たす。
この年の10月、プロ野球界の英雄・長嶋選手が引退。その引退の挨拶で「私は今ここに引退を致しますが、我が巨人車は永久に不滅です!」と名言を残した。卒業していく佐々木、佐藤、斎藤の3名も「我が東北学院大学レスリング部は永久に不滅だ!」との思いを後輩たちに伝え、自分たちが果たせなかった一部昇格の目標を後輩たちが果たしてくれること信じて、思い出深い道場を後にする。
●昭和50年
どおくまん原作の漫画「鳴呼!花の応援団」が巷では大流行。主人公・青田赤道の豪放暴落なキャラクターと4年生団員の無理強いに耐える1年生団員の悲哀さが面白おかしく描かれている。体育会系の運動部員たちにとっては現実の自分の姿とダブらせて共感を覚えていた。酒井、熊谷、佐藤、小山、大崎、柴田、我が部の4年生たちもこの漫画を読みながら自分たちの1,2年生時代を懐かしむ。松島での合宿中「東北放送ラジオの生番組に出演してリクエストして来い!」と命令され仙台駅前のエンドーチェーンまで行かされたこと、仲間の誰かが先輩に喫煙を目撃される度に連帯責任で全員が坊主頭にさせられたこと、そして成人式に仙台駅前から中央通り、一番可通りの繁華街を吊りパン姿で歩かされたこと等が思い出させられる。本学の体育会系クラブにとって死活問題ともいえる「推薦入試制度の見直し」が今年度より実施されたことにより、部員確保が大変難しくなった。我がレスリング部にとっても大変な問題である。今年の新人が阿部哲の僅か1名。部の将来に暗雲が立ち込める。兎に角、小数精鋭で頑張るしかない。日大工学部を招き道場で合同合宿を行なうことにより、合宿中はスパーリングの柏手不足は感じずに過ごせた。合宿後の緊張感の持続が大変であったが、なんとか高めた士気を維持してリーグ戦に挑む。本学の選手たちはチームワークの高さでお互いを励ましあい、一人一人の選手が「俺が勝たねば」と積極的な試合を展開して決勝進出。法政大学との決勝では果敢に攻めるレスリングで挑んだが、気負いすぎたか疲れが出てしまったのか法政夫の地力に屈し、ブロック2位の成績に終わった。敗れはしたが全力で戦ったことに4年生は満足していた。厳しい練習の日々を過ごし(マットに這いつくばらされ、道場の壁に打ち付けられ、窓から放り投げられたこともあった)、先輩たちのシゴキに耐え、試合での勝った思い出や負けた悔しさ等々4年間の思い出を語り合いながら帰路の列車に揺られる。青学との定期戦を勝利で飾り、4年生たちはその選手生活に別れをつげた。
●昭和51年
昨年から厳しくなった推薦入試制度で部員確保は非常に困難となった。今年の新人は二階堂賢治と大和田直之の2名、2年生が阿部1名であるから宮城たち3年生の下の学年は筐かに3名ということになる。この部員数で来年以降いったい部が存続出来るのだろうか?監督を務める伊東OBをはじめ練習に訪れるOBたちも部の将来を心配し、筒井部長に相談する。筒井部長は部員たちに「まず、今、何をやらなければいけないのかをしっかりと判断しなさい。」と助言し、この言葉で部員たちは「先のことをあれこれ心配するよりも、今は兎に角この戦力で頑張るしかない」と考え練習に励んだ。
春の合宿は郡山市で日大工学部と合同合宿。昨年もそうだったが他チームとの合同合宿は普段の練習より励みになる。いつむ同じ人とばかりスパーリングしていたのではお互いに向上しない。人数も多ければ練習にも自ずと気合いが入る。
主将の鎌田裕明、伊山一正、大場昭弘、佐藤敏明、斉藤和宏たちの4年生にとって最後のリーグ戦を迎えた。来年の部員数のことを考えれば、まともにメンバーを組むことが出来る今年が一部昇格の最後のチャンスであると考えられる。4年生たちを中心に選手たちは悔いの残らぬよう持てる力を出しきって試合に挑んだ。決勝の相手は因縁の東海大である。一昨年の借りを返そうと全員が死力を尽くして戦った。残念ながらあと一歩が及ばず、借しくも敗れ去った。またしても二部リーグAブロックの2位に留まる。
部員数が少ないことをくよくよと考えていても仕方がない。団体行動をとるには人数が少ないほうがまとまりやすいという長所もあるではないか。部員たちの団結力、そして仲間意識は例年よりもはるかに強い。そんな折に下夏の合宿をグアム島で行なおうかという話が舞い込んだ。最初は部員たちは「海外での合宿なんてとんでもない話だ」と口々に言っていたが、どうやら激安で行けるらしいということになった。創部以来、初の海外合宿に部員たちも心が踊る。「仲間が少なく腐りかけたこともあったが頑張ってきた甲斐があった」と喜ぶ部員たち。しかし世の中、甘い話には裏があるもので、この渡航を世話しようとしていた旅行業者が実は詐欺だったのである。こうして初の海外合宿は幻と終わった。
●昭和52年
宮城が主将となって年を越したが、副将の高橋弘と主務の加藤良一、後輩3名の合わせても僅かに6名しかいない状態。「創部以来、約30年の歴史の中で最大の危機ではないか」宮城主将はそう感じながらも部員たちを励まし、「なんとかせねぱ、このままでは本当にレスリング部は消滅してしまう」と危惧する。宮城は仙台高校から本学への進学を希望する者がいるらしいという情報を頼りに伊東監督やOBたちと仙台高校へ度々足を運び、合格する保障はないものの熱心に本学への勧誘を行なった。その甲斐があってか仙台高校から相澤徹哉、後藤司、佐藤界一、渡辺敏行の4名の入学者を得ることが出来た。窪田耕土、そして育英高校時代には国体での優勝経験もある岩崎弥太郎も加入、また「高校時代の経験は無いが是非入部したい」と高橋勝も入部。総勢7名の新しい仲間が加わり、部内は俄かに活気付く。リーグ戦でも早速、新戦力の1年生たちを積極的に起用し成功、リーグ戦Bブロック3位の成績は昨冬のチーム状態を考えれば上々の出来と言えるだろう。有望な1年生たちが多かったこと心チームに勢いを付けてくれた。国体でも岩崎がフリー57KG級で5位に入賞し、部内の雰囲気は昨年とは段違いである。また、部員不足に悩も相撲部より大会での助っ人派遣の依頼があり、情に厚い宮城は快く引き受け、全日本学生相撲選手権大会に出場。首投げ、かわづ掛け等の大技を次々と決め、ベスト16まで勝上がり、表彰を受けた。同行した相澤は足腰の強さとバランスがいかなる競技でも大事であることを実感。相澤にも良い経験になっただろう。
現役学生たちに活気が出てきた要因の一つとして若手OBたちが頻繁に練習に訪れ得て練習していたこともあげられる。佐々木幸蔵OBを中心に大沼哲OBや大崎主税OB、本学監督の伊東憲OBたちが明治大出身の熊坂氏、拓殖大出身の大貫氏たちと結成している「みちのくレスリングクラブ」。その面々が自分のレスリングについて知りうる知識と技術そして情熱を学生たちに伝えようと努めた成果である。大学を卒業した後も選手活動を続ける大沼OB、伊東OBは宮城県の代表する選手として国体、東北総体で活躍を続けており、大沼OBは本年の青森国体にも出場してグレコ74KG級で5泣入賞。学生時代にたっぷりと貯えた体力は、今だに現役の学生と比較しても全く引けを取らない。それだけ昭和40年代に活躍した先輩たちは厳しい練習をしてきたことが窺える。今は練習に明け暮れている学生たちが、卒業後も自分たちのようにこうして選手活動を続けながら後輩たちに指導する日が来ることを信じてOBたちも頑張る。それが母校・東北学院大学のためであり、青春の情熱をかけたレスリングのためであるから。
●昭和53年
高校時代はアメリカ遠征にも選抜された渡辺智をはじめ、松本一成、今野信之、横田文男の新人も加入し、リーグ戦には1・2年生が中心の若いチームで臨み、二部Bブロック3位と現状維持ではあったが来年以降が楽しみである。第二次世界大戦後の焼け野原と化した杜の都・仙台にて我が東北学院大学がレスリング部を創設して早いもので30年の歳月が経過した。裸電球の灯る中、部創設の時代に海パンで稽古していた浅見万平、平塚民雄達をはじめとして幾多の豪傑達が武勇伝を残した我がレスリング部。オリンピック候補にもなった小埜寺敏文、石崎孝二。アメリカ遠征に選抜された加藤一之、赤間勝、八木範三、伊東憲、熊谷正義。全日本学生選手権で3位に入賞した赤間、八木、伊東、そして庄司信之。国体2位の大崎主税、3位の鈴木実。東日本学生新人戦のグレコ王者・小畑義一。数々の名選手も輩出し、また、30年の歴史の中では村田兄弟、加藤兄弟、熊谷兄弟など兄弟レスラーも数組誕生している。教室を間借りした時代から礼拝堂の地下を借りた時代を経てレスリング部専用の道場を持つまで稽古場も時代とともに変遷がある。創部30周年を記念してOBたちも活発に活動、OB会主催の祝賀会を催し記念誌も発行する。OB達の汗と涙の染みついた道場も野間記念道場(旧柔道場)へ新しく移転することになった。我が部の道場としては三代目の道場となる新道場は試合用のマットの寸法(直径9Mの円形)が余裕をもって収まる広さで、流し場、トイレ、シャワーも完備(剣道部と共用)されており、練習場の環境としては完璧な設備である。先輩たちの築いた伝統を汚さぬよう、より一層の精進をすることを主将である阿部と新主将となる大和田は部員たちと共に誓った
●昭和54年
育英高校から高橋英男、三浦昭彦の2名が新人として加入、また、マネージャーとして大内祥之が入部した。道場で行なった春の合宿では伊東監督をはじめ若手OBたちが熱心に指導に訪れ、徹底的に基礎体力の向上をはかった。新人たちは勿論のこと、上級生たちも筋肉痛になりながら練習をこなす。かつての先輩たちが行なっていた練習がいかに厳しかったのかが窺える。
リーグ戦では二部リーグBブロック2位と昨年より順位を上げ、相澤が新主将を引き継ぐ。相澤は夏の合宿でも基礎体力の向上をはかろうと考え、鶴岡市にて野営しての合宿を行ない、徹底的に走り捲った。ここ数年、部員不足等の理由もあり低迷を続けた本学だが、来年が本当に勝負の年であることを部員たちは自覚し、合宿後も練習に熱を入れて励む。明るい材料としては、東北工大電子工高がインターハイで団体準優勝、そのレギュラークラスの選手たちが本学への進学を希望して
●昭和55年
ソ連のアフガン侵攻に端を発し西側諸国をはじめ日本までもがモスクワ五輪をボイコットしたこの年、本学には昨年のインターハイで団体2位の電子工高から後藤英俊、今野剛、畑耕一郎、浅野俊吾が入学、仙台高からも宮本幸喜と佐藤千明が入学し部員は総勢19名の大所帯となった。電子工の不動のレギュラーであった後藤と今野はその実績から即戦力として期待が持たれ(特に後藤は国体3位の実績を持っている)、宮本と佐藤も荒削りではあるが基礎体力がしっかりしており大学での躍進が楽しみな選手である。
二部リーグ優勝と一部リーグ昇格を目指して相澤主将のもと連日熱の入った稽古をこなし、いよいよリーグ戦に突入。早速、新人の今野が48KG級で出場し「斬込み隊長」として期待通りの活躍を見せ、チームのムードも盛り上がり、優勝候補の早稲田大にも勝利した。ブロック決勝の相手は山梨学院大である。本学勢は軽量級で圧倒するかに見えたがまさかの逆転フォール貧けが続き、中量級以降は息詰まる攻防が展開された。4-4で迎えたUP決戦、その独特のプレッシャーの中で松本は必死に戦ったが惜しくも敗れ、残念ながら目標は果たせなかった。続く青学との定期戦も実力が伯仲しての大接畿となり、5-4で辛くも勝利する。
定期戦後4年生が抜けて大幅な新旧交替となり、今年果たせなかったリーグ戦での目標を追って松本が新主将に就任。期待の新人たちも新人戦や全日本学生選手権でまずまずの活躍を見せ、高橋、三浦、佐藤、宮本、後藤は来年の主力としての自覚が芽生え、向上心旺盛に稽古に励む。軽量級のホープ今野は相澤と共に国体に出場。自分の闘魂の炎が消えぬことを感じた相澤は、卒業しても後輩たちの指導を続けることを心に誓った。
以下は今春のベス メンバーである。
主将 相澤徹哉 主務 後藤 司
48KG級 今野
52KG級 後藤(司)
57KG級 佐藤(晃) 畑
62KG級 窪田 高橋(勝) 後藤(英)
68KG級 高橋(英) 宮本 浅野
74KG級 相澤 佐藤(千)
82KG級 渡辺(敏)
90KG級 渡辺(智)
+90KG級 松本
●昭和56年
「大学の連動部の優劣は二年生次第」の格言通り二年生が中心となってチームを盛り上げることが勝利への近道であることを主将の松本は確信した。技術・体力共に成長著しい二年生が部員数の約半分を占めていたことも理由の一つである。新人も大久(電子工)、那須(仙台高)、藤田(日大山形)の3名を加えリーグ戦に挑んだ。今野が48KG級に畑も57KG級に減量し勝利に賭ける意気込みを見せ、後藤、宮本、佐藤も練習の成果を発揮しチームの勝利に貢献した。昨年来の目標であったブロックでの優勝を難無く決め、早稲田大との決勝を迎えた。軽量級での先行もチームの勝利には結びつかず、二部準優勝に終わったが主力の大半が来年以降も残ることは心強い。後藤がリーグ戦での敢闘賞を受賞。
国体には本学より2年生の佐藤と今野が選抜され、今野は高校時代か.ら通算で4年連続の代表である。
秋の新人戦でも2年生の活躍が続く。グレコ74KG級に出場した佐藤の重戦車の如き戦いでの快進撃は優勝さえ予感させた。不運にも準決勝の試合中に腕を骨折、ポイントではリードしていながら棄権負けを喫し文字通り無念の涙を飲む。佐藤の無念を晴らすべく、仲間たちも大奮闘を見せた。フリー62KG級の後藤が強豪を次々と破り勝ち進む。特に圧巻だったのは国士大勢4連戦全てを得意の飛行機投げで撃破し準決勝まで勝ち進んだことである。決勝進出こそならなかったものの参加人数の最も多い62KG級での入賞は見事な成績と言える。今野も安定した力を保ち、後藤、佐藤の全国でもトップレベルの2年生が3人いることは部の将来に対しても安泰と言え、大久も着実に成長、那須と藤田も必死で練習に励む。高橋新主将の来期への展望は明るい材料ばかりとなった。
主将 松本一成 副将 渡辺 智 副務 大内祥之
48KG級 今野
52KG級
57KG級 大久 畑
62KG級 後藤 那須
68KG級 宮本 浅野
74KG級 佐藤 藤田
82KG級 高橋(英)
90KG級 渡辺 三浦
+90KG級 松本
●昭和57年
昨年のインターハイで団体3位の山形商から五十嵐が、そして電子工から阿部と木村が入学。木村は全国高校選抜での3位入賞をはじめ全国での入賞経験が多く即戦力である。有望な新人3名を加えて例年通り道場での合宿を行った。合宿後、更に新たな仲間が加わった。山形南高から明治大に進んでいた高橋教士が2年生ながら入部したのである。グレコで国体2位の実績を持ち明大でも活躍していた高橋の加入は主将の高橋英男や佐藤平明の好敵手として重量級の刺激となり、同時に層も厚みを増した。一方の軽量級も48KG級こそ不在ではあるが今野、大久、後藤の3階級は一部リーグでも充分通用する実力を持つため磐石である。一部昇格へ望みを掛けていよいよリーグ戦である。後藤が故障により欠場した為、浅野がその穴を埋めるべく62KG級に出場。ブロックでは各選手共実力を発揮し圧勝。山梨学院大との決勝は実力伯仲であったが、浅野が山梨の今野選手(本学の今野の弟)に敗れるなどして惜敗。続く東京農夫との入替戦でも接戦の末涙を飲み、またしても昇格は出来なかった。しかし、選手個人のレベルは非常に高い。リーグ戦での敢闘賞を受賞した佐藤が2年連続で国体に選抜され、春の新人戦では激戦区のフリー57KG級で大久が4位入賞し、全日本学生選手権では今野がグレコ52KG級で新人戦王者の上島選手(国士大)を破り、秋の新人戦でもフリー57KG級で木村がベスト8入りし実力を発揮。故障の為戦列から離れていた後藤も復調し、まさに順風満帆かと思えたこの秋に突然の衝撃が走った。本学レスリング部の父的存在であった筒井部長が逝去されたのである。伊東監督をはじめ多くのOBが筒井先生を偲び、葬儀の席で号位した、暮れも押し迫る12月、泉グランドに於て学院中高と合同合宿を行った。中高は熊沢保雄OBと大沼哲OBが指導しているため、筋トレに関しては完壁である。来年はその教え子連が入部する。来年こそは一部昇格だ!
主将 高橋英男 副将 後藤英後 務 大内祥之
48KG級
52KG級 今野
57KG級 大久 木村
62KG級 後藤 那須
68KG級 宮本 畑
74KG級 高橋(敦) 浅野 阿部
82KG級 佐藤 藤田
90KG級 高橋(英) 五十嵐
+90KG級 三浦
●昭和58年
筒井先生の後をうけて山本新一先生が新部長となられた。悲願の一部昇格に大変期待が持たれるこの年のチームに推薦入学者こそいなかったものの学院高より菊池、井上、大沼、渡辺、仙台高より庄司が入部し部員数は18名となる。学内での春季練習合宿をこなし、今野、大久、後藤、宮本、高橋、佐藤の磐石の布陣に重量級で五十嵐と阿部の2年生を起用、大沼が48KG級に減量することにより念願の9階級全てが揃い近年では最強のメンバーでリーグ戦に臨んだ。ブロックでは防衛大戦の9-Oを筆頭に圧倒的な強さで勝利し、今年も山梨学院大との決勝戦を迎える。各階級で大熱戦となるが僅差負けが続き、結果的には今野と木村が星を取っただけで二部準優勝に留まる。続く拓大との入替戦では重量級のメンバー組み替えが要目と出て3-6のスコアで敗れ、悲願の昇格は最大のチャンスであった今年も逃してしまう。大変に悔いの残る敗戦であった。唯一人全勝した今野が敢闘賞を受賞した。山梨は一部昇格を果たす。育学との定期戦でも圧勝を飾ったが、4年生6名と高橋が抜ける今後は前途多難である。大久新主将の下、練習に励むが故障者が多く、春の新人戦ではくじ運に恵まれた52KG級で大沼と庄司が学生選手権の出場権を得ただけで、激戦区の57KG級に出場した木村は健闘するも上位進出は果たせなかった。全日本学生選手権には出場した7名が全員初戦で敗退。不振に喘ぐ後輩たちを励まそうと4年生の畑が定義での芋煮会を企画。しかし、部員相互の親睦を計る目的の半煮会が味付けを山形風にするか宮城風にするかで分裂。結局両方作ったのだが、こんなチーム状態では来年が不安視される。
レスリングの伝導師として底辺への普及に努める熊沢OBと大沼OBは中学生(学院中)への指導も行なってきた(大沼OBはこの年の夏、ジュニアの世界大会へ全日本チームのコーチとして渡米もしている)が、OBたちや多勢の理解者の協力を得て新たにチビッコレスリング「宮城少年クラフ」を設立、小学生及び幼年まで裾野を広げてレスリングの魅力を教えている。本学院の建学の精神を全うせんと活躍するOBたちに負けずに現役学生も「レスリング道」のあくなき探究に邁進せねばなるまい。
主将 後藤英俊 副将 佐藤千 明 主務 宮本幸喜
48KG級 大沼 庄司
52KG級 今野
57KG級 大久 菊池
62KG級 後藤 那須 木村
68KG級 宮本 畑 渡辺
74KG級 浅野 藤田
82KG級 高橋 阿部
90KG級 佐藤 井上
+90KG級 五十嵐
●昭和59年
昨年のレギュラーが大幅に抜け、道場で行った春合宿では大久、大沼が負傷するなど戦力ダウンに追い討ちをかけ、新入生はこの年度より導入されたスポーツ推薦制度で田中(山形商)、及川(電子工)が入学、学院高から古関が入部し3名の補強となるが3名とも高校時代の階級が52KG級と重なっているため、部員数の減少と団体メンバー編成に不安を募らせる。その中で4年生の那須と五十嵐、木村、阿部の3年生3名が中-重量級を支え、リーグ戦では五十嵐が肋骨を折りながらも全勝し敢闘賞を受賞、木村も階級を上げて苦戦が予想されたが持前の気迫で全勝を収める。そして+90KG級にはボディビル部から助っ人として出場した門間選手が2勝を挙げ辛くもブロック優勝を遂げた。東京農大との決勝では各階級とも接戦はしたものの五十嵐の1勝にとどまり惨敗。続く中央大との入替戦も全滅かと思われたが、大学入学後に入門した藤田が一矢報いた。奇しくも藤田の兄は中大レスリング部のOBであるため何よりの恩返しであったといえよう。リーグ戦後は1・2年生の強化に重点がおかれ、続く新人戦では全滅であったものの、大阪府立体育館で行われた全日本学生選手権ではグレコ57KG級で菊池と大沼が勝ち進み、特に大沼はこの大会での最短フォール賞を受賞。秋の新人戦では菊池が両スタイルでベスト8入りし春の雪辱を果たした。今年度の試合出場権が無いにも関わらず、後輩たちの指導に専念した4年生高橋の情熱が成果を実らせたといえる。
この年の夏に行なわれたロサンゼルス五輪では日本レスリング勢が大活躍。宮原選手(金メダル)、江藤選手(銀メダル)のグレコ決勝戦は部室のテレビで全員が観戦。山梨学院大から練習に来ていた今野選手、佐藤選手や大東文化大の大黒選手に興奮の冷めやらぬうちにグレコの手解きを受ける。フリースタイルは日本選手全員が入賞の快挙。富山選手の金メダルには感動させられた。東北出身の太田選手、赤石選手の活躍(銀メダル)に部室内も大歓声。特に日大2年生の赤石選手は部員たちとは同世代であるため思い入れ心強く、高校時代から親しい木村は感激もひとしおである。
また、この年には鈴木志淳子が女子マネージャーとして入部し、汗臭い道場にも一輪の花を咲かせている。
主将 大久敬一 副将 高橋敦士 主務 藤田昇三
48KG級 庄司
52KG級 大沼 古関
57KG級 大久 菊池
62KG級 那須 田中
68KG級 木村 渡辺
74KG級 阿部
82KG級 藤田
90KG級 五十嵐
+90KG級 井上 (門間)
●昭和60年
阿部と渡辺がチームをよくまとめ、大年寺山での一カ月に及ぶ走り込みと青根での学院高校との合同合宿で徹底した筋力強化を行う。スポーツ推薦で原田(山形商)、猪俣(電子工)、塩手(宮工)が入学、学院高から早坂、小野寺が入学、そして全国高校選抜3位の木村雄三(山形南)が入学し大幅な補強となり、リーグ戦でも早坂と木村雄三が活躍、将来が有望視される。団体戦の成績としては現状維持であったが、「来年の学校創立百周年を一部昇格で飾る」を目標に菊池が新主将となり例年以上の厳しい練習を行った。走り込みとロープ登りで体力を強化し、技術的には週の半分をグレコの練習にするなど「理論」と「根性」の二本立てである。道場での夏季合宿中に行われた国体の県予選では菊池と木村雄三が優勝(両者共に推薦はされず)、続く全日本学生選手権で古関がフリー52KG級でベスト8入りを果たす。更にその後、埼玉県の自衛隊体育学校でも合宿を行い、ロス五輪銀メダリストの江藤コーチの指導の下トップレベルの選手たちに胸を借り、最終日の交流戦では大沼と木村雄三が全日本選手権で入賞している選手にフォール勝ちするなど着々と実力を向上させた。その後も全日本学生王座決定戦に出場し、初戦で拓大に破れはしたものの一部昇格への手応えを感じ、山梨県で行われた全日本大学選手権でも菊池、大沼、古関、早坂が健闘し、一年掛かりの強化策は多大な成果があったといえる。
また、将来の部員確保と底辺の強化に着目し、県内の各高校で練習するなど高校生への指導にも力を入れ、例年より充実した活動を行ってきたが、渡辺が故障のため退部するなど残念な事柄もあった。
主将 五十嵐智志 副将 木村哲哉 主務 阿部国利
48KG級 庄司
52KG級 古関 小野寺
57KG級 菊池 猪俣 及川
62KG級 木村(哲) 大沼 原田
68KG級 田中 渡辺
74KG級 阿部 木村(雄)
82KG級 五十嵐
90KG級 早坂
+90KG級 井上 塩手
●昭和61年
「学校創立100周年を一部昇格で」を合言葉に行って来た練習の成果を出す年をいよいよ迎え、目標達成のための戦力も整い、条件は揃った。昨年10年ぶりに県で団体優勝をした育英高校からは主将・佐藤誠(大マコ)と高橋信宏、学院高の主将・佐藤誠(中マコ)の3名が入部(※もう一人の佐藤誠(小マコ)獲得は国士館大に進学された為に失敗)、人数は少ないものの即戦力の新人を得て道場での10日間の合宿で更に体力と精神力の強化を行う。また、この春は女子マネージャーが3名入部するという珍現象?も起きている。悲願の一部昇格をかけたリーグ戦は土壇場でチームの和が乱れ、足並みが揃わずに伏兵の立教大に敗れてしまう。運も味方し辛くもブロック優勝、早稲田大との因縁の決勝戦へ駒を進めた。早稲田戦は菊池主将の判断で7階級で挑んだが、取りこぼしが響き4-5で敗れた。この試合で負傷者が相次いだため入替戦でも惨敗となり、またしても悲願成就せず。早稲田は拓大を破り一部昇格。菊池は二年連続で敢闘賞を受賞したが、4年間で二度も敵校だけが昇格する姿を傍らで見、無念の涙を流した。
翌日行われた青学との定期戦ではパトリック選手(留学生)には星を落としたが8-1で勝利。田中が主将をそして鈴木志淳子が主務を引き継ぎ、新体制で迎えた新人戦では木村、早坂を中心に本学勢が続々とベスト8入りを果たし実力を発揮。大阪(堺市)での全日本学生選手権には4年生の大沼を含め9名が出場。上位校の有名選手と早い段階で当たってしまうくじ運の中、本学勢は敗れはしているものの互角以上の戦いを演じ会場を沸かせるなど個人のレベルは高く、団体で二部に留まっているのは何故か不思議なくらいである。今年は王座決定戦や大学選手権には出場しなかったが、田中が本学からは4年ぶりに宮城代表で国体に出場。秋の新人戦では伸び悩んでいた小野寺が活躍し、選手層の厚みが感じられる年であった。
主将 菊池幹昭 副将・ 務 大沼清信
48KG級
52KG級 庄司 古関 小野寺
57KG級 菊池 大沼 高橋
62KG級 猪俣 及川 原田
68KG級 田中 佐藤誠(中)
74KG級 木村
82KG級 佐藤誠(大)
90KG級 早坂
+90KG級 井上 塩手
●昭和62年
泉キャンパスが完成したこの年は昨年とほぼ同じメンバーで団体戦が組め、団体東北3位であった学院高の主将・長田と我妻、高橋氏志、東北高校から五十嵐が入部し戦力的には安泰かと思われたが、土樋と泉に分かれてしまった戸惑いと休部する者が相次ぎ、一転して大変な状態に追い込まれてしまう。また、今年は同じブロックに東農大がいるため熾烈な戦いが予想される。長年に渡って続いた二部のトップの座も危うい。主将の田中は言葉では表わせない大きなプレッシャーを感じていた。不安を抱えながらリーグ戦に突入。順当に勝ち進み農大戦を迎えた。4年生の古関、田中は精神面の弱点が露呈し本来の実力が出せず、木村、早坂が奮闘するも既に勝負は決し、結局ブロック2位に落ちてしまった。リーグ戦終了後、士気の下がった部員に渇を入れるべく木村が新主将となった。木村はまず母校である山形南高を招き道場で合同合宿を行い、恩師・武田先生の「練習は量よりも質が大事。デタラメな打ち込みを何万回繰り返しても無駄。ここ一番の大事な場面で悔いの残らぬ様、一つ一つの練習を大切に。」という厳しいながらも的確な指導を受け、また、電子工で合宿していた東洋大に出稽古に赴き、国体予選には部員全員を出場させ(木村と早坂が優勝)るなど積極的な活動を行い部員の士気の高揚に努める。
しかし、個人競技であることや考え方の相違な者の集合体をまとめることは、非常に困難な事であった。そのような状況の析出場した全日本大学選手権では、62KG級の原田が奮闘。これまで控えに甘んじていた原田だが、その欝償をはらすかの活躍であった。
またこの年、OBの社会人クラブが発足し、全国社会人オープン選手権大会で高橋英男OBがフリー90KG級で3位入賞を果たした。
主将 田中賢治 副将 古関信 主務 鈴木志津子
48KG級
52KG級 古関 小野寺
57KG級 高橋(信) 五十嵐
62KG級 猪俣 及川 原田
68KG級 田中 我妻
74KG級 木村
82KG級 佐藤誠(大)
90KG級 早坂
+90KG級 塩手 長田
●昭和63年
昨年来、休部していた者たちが木村の地道な呼びかけで続々と復帰し、ようやくチームもまとまって来た。大泉、土井、大崎の3人が学院高から入学、重量級の三橋(電子工)も加わり戦力も整う。「選手生活最後の大会に悔いを残すな!」という方針でリーグ戦には4年生全員がフル出場。結果こそ昨年と同じブロック2位ではあったが、全員が一丸となって精一杯戦った。満足した表情で駒沢体育館を去る。翌日行われた青学との定期戦では、青学の強化に肝を冷やさせられた。
帰仙後、4年生6名が抜け高橋信宏が主将となるがまたまた多難な状況に陥る。主力の佐藤誠が2人とも大学を退学し、成長株で将来有望だった大崎も退部、一気に部員数が7名となってしまった。部の存続ですら危うい状況である。それで心残った部員たちは、練習に来ているOBたちに激励されながらも何とか活動した。高橋武志と大泉は山形で合宿していた国士大に出稽古を行い、自分たちの練習が如何に甘かったかを思い知る。そしてこの秋、ソウル五輪での日本レスリングの活躍を道場に近い喫茶店シルヴィア(合宿中の食事で大変世話になっている)にて全員で観戦。連日の日本勢の活躍に感動し、店主にも励まされ、精鋭とは程遠いにせよ、兎にも角にも7名で頑張るしかなかった。そんな最悪の練習環境の中、京都国体の代表に選ばれた高橋信宏は高校時代の恩師である阿部勲先生を頼り、育英高校との合同練習を頻繁に行なって高校時代の闘争心を蘇らせようと必死に努めていた。
また、この年、郡山市で石田博基OBがチビッコレスリングの指導を開始した。本学の建学の精神である「世の光、地の塩」の言葉は卒業して幾年月も経過したOBに実践されているのである。
主将 木村雄三 将 早坂友行 主務 塩手芳雄
48KG級
52KG級 小野寺
57KG級 高橋(信) 五十嵐
62KG級 原田 我妻 大崎
68KG級 猪股 大泉
74KG級 木村 高橋(武)
82KG級 佐藤
90KG級 早坂
●平成元年
元号も昭和から平成に変わり、部内にも新しい風が吹いてきた。僅か7名で年を越したが、グレコ東北総体王者の池田(山形商)、群馬からは田中(西邑楽)、そして伊藤(秋田経法大付)、高橋修二(育英)の鐸々たる4名の入部。長町のとある物件を伊東監督が借り上げ、この4名を共同で入居させるという斬新な試みも行った。しかし、またも問題が発生した。練習で上級生が1年生に勝てないのである。唯一人の4年生である高橋は困り果て3年生ながら伊勢(学院高)を入部させた。伊勢の加入で他の部員が「ブランクのある奴には負けてはいられない」と刺激され、見事にチームはまとまった。リーグ戦での成績は現状を維持。しかし、次年度からリーグ及びブロックの改編が行われることから、自動的に繰り上げで一部昇格という形になった。リーグ戦後行われた青学との定期戦では完敗であったが、部の存続すら危ぶまれたこの一年間を振り返るとまさに夢を見ているかの様であった。ところが高橋の抜けた後またもや問題が発生。今度は更に深刻な状態である。3年生が全員退部、部員たちから最も信頼の篤かった2年生の土井も膝の故障が原因で退部、部員は6名となってしまったのである。2年生の大泉が主将となったが荷が重すぎた感がある。折角優秀な新入生が入っても全く先が見えなくなり、創部以来最大の危機的状況に陥った。
一方、選手活動を続けるOBの活躍は素晴らしかった。全日本社会人選手権では高橋英男OBがフリー90KG級で3位入賞。東北総体では早坂友行OBが74KG級で優勝、学生時代と違い自由に練習出来ない環境の中、残り少ない選手生活とレスリングに対する熱い情熱を賭けて戦う先輩たちのメッセージは現役学生には届かなかったことが残念である。
主将 高橋信宏 副将 我 妻康成 主務 高橋武志
48KG級
52KG級 高橋(修)
57KG級 高橋(信) 五十嵐
62KG級 我妻 池田
68KG級 田中 伊勢
74KG級 大泉 伊藤
82KG級 土井
90KG級 高橋(武)
+90KG級 三浦
●平成2年
念願叶って一部リーグ校として年を越したが、部の抱える問題は山積みである。土樋と泉の距離の問題は既に三年経過はしたものの1・2年生中心のチームには今だ解決できない。教養学部に在籍する伊藤は練習に参加できず、部員不足に追い討ちをかける。人一倍練習好きだったはずの大泉主将は統率力の無さが目立ってしまい、仲間がいないのを言い訳に練習も行われない。新入生も3名入部したが、尾関(山形商)は膝に故障を持ち、佐藤剛之(山形商)と佐藤隆史(電子工)は格闘技をするには優しすぎる。団体戦を組むにも階級が揃わない。問題点を克服するのは自分たちの力、自分の力しかない。大泉は独り黙々と走り込んだ。高橋は長町から泉までを足腰の強化のため自転車で通学、母校から入学してきた後輩たちに無様な姿は見せられない池田もやる気を見せはじめ、田中も後に続きようやく全員での活動が再開される。
しかし、立ち遅れと部員不足により本来の階級に出場出来ないハンディはあまりにも大き過ぎたといえる。リーグ戦では屈辱の全敗を喫し、二部へと転落する。一方、高校スポーツの祭典であるインターハイが今年は宮城県で開催され、団体では電子工が3位、個人でも本県勢が多数活躍。地元開催に華を添えた。
また、OBの結成したサニークラブが全日本社会人選手権大会で団体3位入賞。レスリング熱に意気揚がる県内に於て、本学だけが低迷している年であった。
主将 大泉宗一 副将・主務 三橋 勲
52KG級
57KG級 高橋(修) 佐藤(剛)
62KG級 池田
68KG級 田中 尾関
74KG級 大泉 伊藤
82KG級 佐藤(隆)
+82KG級 三橋
●平成3年
伊東監督の後を受けて早坂新監督が就任、コーチとして中央大学OBの小野和治氏を迎え入れ、軽量級のホープ長谷川(山形商)とインターハイ3位の玉野(電子工)が入学。少数ながらも即戦力の2名が加わり新体制の士気は高ぶる。青根に於て県内の高校生と合同で合宿を行い、本学のOBはもとより大勢の先輩方が訪れ、胸を借り、激をとばされ、久々に緊張感の漂う環境での練習であった。
合宿後も早坂監督は指導の手を緩めず、自らものりだして泉での朝練習を開始、土樋では小野コーチを先頭に若手OBらが連日マットに上がり指導。その成果は早くもリーグ戦での二部優勝という形で実を結ぶ。玉野は全勝でデビューを飾り優秀選手賞も受賞。新監督の門出は順風満帆である。就任当時から部員不足の憂き目にあい、やれ統率力が無い等の批判の槍玉に上げられた大泉主将もリーグ優勝という形で有終の美を飾ることが出来た。池田、田中、高橋、伊藤の3年生たちも大泉を支えてこれまで頑張ってきた甲斐があった。青学には水を開けられ定期戦では完敗したものの、池田が主将を継ぎ更に熱の入った練習が続く。草津での全国合宿にも参加。長谷川は山形県代表で、小野コーチも宮城県代表で国体出場。在仙の中央大OB岸本氏や国士大OBの清藤氏も道場に頻繁に訪れ、全日本のトップレベルで活躍してきた先輩たちに稽古をつけられ、遅れをとっていた2年生も地力をつけてきた。来年の飛躍が非常に楽しみである。
また、伊東前監督は総監督に就任、宮城県議会議員選挙に挑戦し、見事当選を果たした。この年は我がレスリング部にとって大変素晴らしい一年であった。
主将 大泉宗一 副将・主務 三橋 熱
52KG級 長谷川
57KG級 高橋
62KG級 池田 玉野
68KG級 田中 佐藤(剛)
74KG級 大泉 伊藤 尾関
82KG級 佐藤(隆)
+82KG級 三橋
●平成4年
期待を背負って入学した池田たちも早いもので4年生である。小野コーチやOBたちも毎日稽古に訪れ、昨年来着実に部員全員のレベルが上がり、新人も斎藤(野田北)、伊藤(育英)・鈴木(山形南)を加え、もはや負ける要素は無いと思えた。意気揚々とリーグ戦に臨んだが勝負の世界は厳しいものである。大事な場面で4年生がそれぞれ取りこぼしたのである。二部で3位という史上最低の成績に終わり、さすがに早坂監督も池田主将も愕然とした。会場に居合わせたバルセロナ五輪代表の赤石光生選手に励まされ、二人は部の再建を誓う。青学との定期戦を終え帰仙後は、佐藤剛之が新チームを率いる。これまでの試合ではあまり目立たず頼りなく思えた3年生であったが「雨振って地固まる」の例え通り、素晴らしいまとまりをみせた。膝の故障で練習できない尾関が裏方に徹し、佐藤隆史心不器用ながら人一倍の練習をこなす。新人戦では新たに登録制(二部リーグ校及び大学入学後の入門)が導入され、斎藤、伊藤が揃って優勝。愛知での全日本学生選手権には4年生の高橋も出場、成績は振るわなかったが4年間良く頑張った。期待されて入学した後、壊滅状態の部を池田、田中、伊藤と力を併せて支えてきた。この経験は社会に出ても必ず財産となるだろう。
本学OBたちが結成している社会人クラブは、小野コーチの勤務先より絶大なる支援を受け・名称を「日立TOクラブ」に改称。全日本社会人選手権大会で早坂監督もメンバーに加わり団体ベスト8、個人では「戦う県会議員」伊東憲OBが青年の部にて準優勝。東北総体でも大沼清信OBが準優勝し、OBたちも元気に選手活動を続けている。
主将 池田知和 副将 田中栄二 主務 高橋修二
52KG級 長谷川
57KG級 高橋 鈴木
62KG級 池田 玉野
68KG級 田中 斎藤
74KG級 伊藤(浩) 佐藤(剛)
82KG級 伊藤(文) 尾関
+82KG級 佐藤(隆)
●平成5年
昨年の二部で3位の成績を下回ることはないだろうが、佐藤剛之主将は「試合に出れない尾関のためにも、是が非でも優勝したい」「ここ一番の勝負に弱い隆史に頑張っても.らいたい」という願いを込めて日々の練習をこなしていた。そして秋田商から来た佐藤義人や母校・山形商の恩師の子息である三沢直矢の前で意地心見せたい。期待の新人・大泉祐(学院高)は一昨年の卒業年大泉の弟で、国体グレコ5位、フリー、グレコの両スタイルで東北2位の実績を持ち、長身を生かした変則の戦術は10年前と活躍した木村哲哉OB、大沼清信OBらを彷佛とさせる。リーグ戦では、大泉がフル出場。長谷川、玉野と軽量級3人で先行逃げきりのパターンを展開。斎藤、伊藤も順調に連勝、肝心の4年生はいまひとつ精彩を欠きながら群馬大との決勝を迎えた。
白熱した攻防は3-3となり、勝負の行方は重量級の佐藤隆史の両肩に重く伸し掛かる。前半でリードを許し仲間たちももはや諦めかけた。しかし、隆史は闘志を失わず、猛追し終盤には逆転。最大のピンチも守りきり、見事チームを優勝に導いた。隆史は土壇場で男を上げ、剛之は主将の責任を全うし、二人を陰で支えた尾関は男泣きした。伊藤が優秀選手賞を受賞し、一部には昇格出来なかったものの素晴らしいチームであった。
青学は一部Bリーグで健闘、本学との差は開いたままである。4年生が抜けた後は故障者も多く緊張の糸が切れた状態に陥ったが、玉野と長谷川が自覚を持って後輩たちをまとめた。春の新人戦ではB部門で三沢が優勝。学生選手権、王座決定戦、大学選手権では振るわなかったものの、秋の新人戦では斎藤と伊藤がともに健闘を見せベスト8に残った。斎藤と伊藤は基本がしっかり身についており、勝負度胸も良く、向上心も旺盛、チームの柱となる2年生である。愛知県刈谷市で行なわれた全日本社会人選手権大会では「山形格闘倶楽部」から出場した五十嵐智志OBが現在のルールを理解していないにも関わらず、フリー9OKG級で見事3も入賞。学生もOBも山形商勢が活躍した年であった。
また、大沼哲OBが指事をしている「宮城少年クラブ」も再び活発に活動。福島県でチビッコレスリングの指算に熱を入れている石田OB、同じく千葉県でチビッコレスリングの指導に熱を入れている田村OB、全日本社会人レスリング協会の役員として活躍する村上OB、いずれも昭和40年代前半の本学の全盛期を支えたOBたちである。彼らのレスリングに対する情熱は大学を卒業して二十数年経過した現在も全く衰えていない。選手活動を続けるOBたち、底辺への育成・強化に精を出すOBたち、そして現在はレスリングと直接関わっていなくとむ母校の発展を祈り続けるOBたち、今年度のように現役学生が頑張る姿がいずれのOBたちにも喜ばしいことであり、誇りとなるのである。今後いっそうの現役学生の精進を期待してやまない。
主将 佐藤剛之 副将 尾関匡俊 主務 佐藤隆史
52KG級 長谷川
57KG級 鈴木 大泉
62KG級 玉野
68KG級 斎藤 佐藤(義)
74KG級 佐藤(剛) 三沢
82KG級 伊藤(文) 尾関
+82KG級 佐藤(隆)
●平成6年
今年も有望な新人が4名入学。秋田商から村井、山形商から粟野、学院高から土井と柔道出身の青嶋(レスリングでも全国選抜大会に出場経験有り)、軽量級から重量級までそつ無く揃った。小野コーチの取計いで中央大学との合同合宿を青根にて行う。中大OBも多数訪れ充実した練習も行えたが、本学勢は故障者が続出。リーグ戦に向けて暗雲が立ち込める。更に悪いことが続く。チームの要であった伊藤が退学してしまい、事態は深刻、まともにスパーリング出来るのが一組だけなのである。それでも主将玉野は孤軍奮闘し、小野コーチやOB相手に練習をこなす。故障している長谷川も意気に感じて練習を休まない。文字通り傷だらけの状態でリーグ戦に臨み、決勝の相手は今年も群馬大である。群大の柳川監督は試合前に「勝利宣言」する程の自信を持ち、それを裏付ける強化もしていた。玉野が意地を見せ元気者の土井が活躍するが、やはり伊藤の抜けた穴は大きかった。早坂監督も「この戦力ではここまでが精一杯。皆よく頑張った」としか言えなかった。春の新人戦は一般の部に出ている2年生は振るわなかったものの、例によってB部門に出場した1年生が活躍。新潟で行われた全日本学生選手権では新主将となった斎藤の獅子奮迅の戦いで一部校の選手を次々と撃破。ベスト8を賭けた一戦で接戦の末敗れたが、出場者の多い学生選手権の68KG級で勝ち進んだことは評価に値する。
また、今秋から開催された「東北学生選手権大会」では、会場が本学(土樋)で行われたことも手伝ってか上位を独占。成長著しい青嶋がどれだけ伸びるかが来年の鍵である。埼玉県の朝霞市で行なわれた全目本社会人選手権大会では「宮城レスリングクラブ」に改称したOBチームが小野コーチと大衆宗一〇Bの活躍で団体3も入賞、個人でも大沼清信OBが昨年に続いてのベスト8。地元・仙台で行なわれた東北総体でも大衆OBと高橋修士OBが活躍。OBたちも相変わらず元気に頑張っている。
主将 玉野信行 副 ・主務 長谷川学
52KG級 長谷川
57KG級 鈴木 村井
62KG級 玉野 大泉
68KG級 土井 粟野
74KG級 斎藤 佐藤(義)
82KG級 三沢
+82KG級 青嶋
●平成7年
佐々木幸蔵OBと「一部昇格したらハワイ旅行」の約束を交わした斎藤主将、悲願の一部昇格を目指して泉での春合宿を行う。小林(山形商)、中村(上山明新館)の2名を加え、3年生としての自覚が出てきた佐藤、三沢、大泉がムードメーカーとなり、小人数ながらも目標達成に向かって全員がまとまりをみせる。しかし、闘将斎藤には大きな欠点があった。故障の多さである。最後のリーグ戦を間近に控えたこの時期に白らの故障でチームのムードに水を差すことになる。負傷を押してのリーグ戦は順当に勝ち進み、決勝戦は今年も群馬大である。昨年の雪辱を期し試合に臨むが、村井、鈴木と軽量級が相次いで敗れ、斎藤自らの敗戦で勝負は決してしまう。結局、入替戦でも精彩無く敗れ悲願は成就せず、斎藤は悔し涙が止まらなかった。群大は国際武道大を下し一部昇格。群大に雪辱するためには何としても一部に上がらなければならない。三沢が新主将としてその目標を追うことになった。明るい材料は土井と青嶋の成長である。副将・大泉が57KG級で出場すれば3階級は磐石となり、課題は栗野、小林の競争による切磋琢磨と三沢、村井がどれだけ勝負強くなれるかであった。個人戦としては二回目となる東北学生選手権で本学勢が活躍。その他の大会では上位入賞こそしていないものの青嶋の健闘が目立つ。村井も宮城代表で国体出場し、来年への明るい希望が徐々に膨らんでいる。
一方でOBも寄る年波と闘いながら、全日本社会人選手権大会では大沼清信OBが青年の部62KG級で優勝。小野コーチも国体に出場し健在ぶりを見せた。卒業する斎藤も就職が警視庁に内定、自分の果たせなかった一部昇格の夢を後輩達に託し、再びレスリングを社会人として続けることになる。
主将 斎藤善仁 副将・主務 鈴 木良太郎
52KG級 村井
57KG級 鈴木
62KG級 大泉 栗野 小林
68KG級 土井
74KG級 斎藤
82KG級 三沢 佐藤
+82KG級 青嶋 中村
●平成8年
個性の全く異なる三沢、大泉、佐藤がそれぞれの持味を活かしてチームを引っ張り、4年生ながら佐藤武神(相馬高)が入部したことで更にまとまりが良くなった。素人相手に手解きすることで自分たちも基本に立ち返ることになったからである。村井も厳しかった秋高時代を思い出し、斬込み隊長としての重責を果たすため練習に打ち込んでいた。熊谷(山形商)、大泉高大(山形南)、高橋(西武台千葉)、千葉(学院高)の4人の新人も加わってリーグ戦を迎える。苦戦を強いられた慶応大戦も辛勝し、6年前に二部落ちした時の対戦相手である国際武道大との決勝を戦う。各階級で息詰まる攻防が展開された。大泉祐は兄の代で敗れた雪辱を何としても果たしたい。意地の逆転フォール勝ちでムードを高め、勝負の行方を主将の三沢に託す。重圧の中での戦いは本来の力が出せぬまま三沢が敗れ、明暗を分けた。意気消沈しての入替戦も東海大に敗れたが、主務の佐藤義人は晴れやかな表情で周囲を励ます。選手と裏方の二足の草鞋を履いて来た義人の最後の務めである。早坂監督も選手たちへの労いの言葉をかける一方で敗因を「接戦での状況判断が悪い。精神面の弱さも露呈した」と分析、今後の課題をリーグ戦での全試合をフォール勝ちした新主将の土井に引き継がせた。今回のリーグ戦での何よりの収穫は熊谷の新人離れした勝負強さと粟野の闘争心である。逆に村井、中村、高橋は練習での実力を試合で出し切れていないため精神面の強化が必要であろう。
一方、昭和23年に本学レスリング部が産声をあげてから来年で50周年を迎えるに当たり、OB会では記念事業を行なうことを審議、菅野幹事長が記念事業の実行委員長に就任し事業内容等を決定すべく頻繁に幹事会(創部50周年記念事業準備委員会)を開催していた。
主将 三沢直矢 副将 大泉祐 主務 佐藤義人
52KG級 村井
57KG級 大泉(祐)
62KG級 栗野 小林
68KG級 土井
74KG級 高橋 熊谷
82KG級 三沢 大泉(高)
+82KG級 青嶋 中村
●平成9年
半世紀に渡る本学レスリング部の歴史を紐解くと、宮城県のレスリング界の祖として県内の競技力向上と普及に貢献してきたことはまぎれもない事実であり創部以来のテーマでもある。しかし、平家物語の「盛者必衰の・・・」の例え通り残念な現実にも直面する。本学レスリング部OB総数の2割強を輩出してきた仙台育英学園高校レスリング部の活動休止が奇しくも本学レスリング部劇部50周年の年に当たるとはあまりにもせつない出来事であった。その育英高校で主将を務めてきた須賀が入学。OB連の期待を一身に背負っての入部である。そして、これもまた奇しくもであるが現在を遡ること30年前に本学レスリング部の黄金時代を築いた熱血漢・石田博基OBが郡山市で指導していた教え子の石田(田島高)と宍戸(郡山北高)が入部。言うまでもなく石田は石田OBの長男でありここに本学初の二世レスラーが誕生した。
創部50周年に錦を添えるためリーグ戦に向けての強化合宿を泉で行なうが主将の土井をはじめ村井、小林、熊谷達主力の故障が相次ぐ。暗いムードを払拭しようと青嶋、粟野が懸命に練習に打ち込む。社会人となってからレスリングを始めた前田氏と金子氏が頻繁に道場に訪れ、練習を共に行なう。新人たちも元気がある。社会人の両氏と新人達に負けじと土井、村井も復活した。いよいよ夢を賭けてのリーグ戦に突入。今年のチーム編成は4人の4年生と石田、宍戸の1年生コンビが中心となる。教え子逢の成長が気になるのか石田OBも駒沢体育館へ駆けつけ激を飛ばす。大沼清信OB、斎藤善仁OBも駆けつけ後輩達の一挙手一投足に見入り応援の声も枯れる。例年同様、順当に決勝に駒を進めたが迎えた明治大戦は気迫の差が歴然としていた。昨年二部に降格した明治大だが流石に伝統校である。僅か1年で徹底的な強化を施して来た。本学の創部当時から明治大には胸を借りて来た。50周年の年に明治大に大差で敗れたこともまた因縁であろう。しかしまだ終わった訳ではない。入れ替え戦が残っている。石田OBの学生時代、熱心に本学を指導して下さった相沢秀平氏と佐藤博俊氏も会場に来ており激励の言葉を頂戴した。一進一遇の攻防が続く。僅差での延長戦での敗戦が続く中、菜野が意地を見せての逆転勝ち、ここ一番に弱いと言われ続けた高橋も落ち着いた試合運びで勝ちを手にする。村井、土井、青嶋の敗戦が響き結局は二部残留であったが、4年生たちが流した試合後の悔し涙を後輩達は忘れないであろう。
創部50周年を一部昇格で飾ることは残念ながらできなかったが、中村新主将以下現役部員達は我がレスリング部の新しい歴史の1頁を刻もため、今回寄贈されたキャンバスに汗と涙を染み込ませながら稽古に明け暮れ、伝統を守らんとしている。
一方でOB会の活動は菅野実行委員長を中心に創部50周年記念事業の実行委員会を悪戦苦闘しながらも頻繁に開催。2月に開催した通常総会(卒業生追い出しコンパを同時開催)では大雪の悪天候に見舞われたため、交主機関が麻疹状態となり記念事業の趣旨・内容等の説明が十分には成されなかった。そこで6月に山本部長の経済学部長昇進を祝うとともに臨時総会を開催、あらためて記念事業の趣旨・内容等の説明を行なった。この総会にはかつてない程、多数のOBが遠来より駆けつけて参加し大盛会、OB一人一人が母校である東北学院大学体育会レスリング部の益々の発展を想う心の強さがあらためて感じられる。